嵐山光三郎さんを悼む…命の恩人であり混浴仲間でもあった
【週刊誌からみた「ニッポンの後退」】
嵐山光三郎さんが亡くなってしまった。本名・祐乗坊英昭、享年83。
彼は“人生の達人”だった。平凡社の雑誌「太陽」の最年少編集長。その後、フリーになって“男の本音誌”月刊「DoLiVe」を創刊して大成功。
「昭和軽薄体」といわれた「たのCのでR」というABC文体を駆使して軽妙なエッセーを次々に発表。フジテレビの「笑っていいとも!増刊号」編集長として軽妙洒脱な話術で茶の間の人気者になった。
旅、温泉、食に通じ、「素人庖丁記」で講談社エッセイ賞。食を通して文学の本質に迫った「文人悪食」(マガジンハウス)。週刊新潮で長年、俳句欄を担当。芭蕉の研究者。「悪党芭蕉」(新潮社)で泉鏡花文学賞と読売文学賞をダブル受賞。“ヘタウマ”な絵も魅力的だった。
彼の生き方の原点は、大学時代に将来実現したいことを100項目ノートに書きだし、それを達成していったことにあるのではないか。「キリマンジャロに行きたい(登りたいではない)」「テレビに出てみたい」「ローカル線で温泉へ行きたい」「職人的な編集者になりたい」「いい女と付き合いたい」などなど。嵐山さんはそのすべてを40歳になった時に達成してしまった。するとさらなる“具体的な目標”100を書きだし、一つ一つ実現していった。
私は嵐山さんの3歳下である。知り合ったきっかけは、私が講談社の「月刊現代」編集部にいたとき、彼に「ホームレス体験記」を書いてくれないかと頼みに行ったことだったと記憶している。
「笑っていいとも!」を辞めてしばらく経っていたが、面が割れているので断られると思った。だが、「面白い、やろう」といってくれた。新宿の路上でホームレス仲間と酒を酌み交わしている姿が、夕日が沈む町に溶け込んでいた。男の哀愁を感じさせた。
ウマが合ったのだろう、以来、酒を飲み、カラオケを歌い、各地の温泉に入り、オーロラを見るため3泊5日の弾丸旅行で、アラスカ・フェアバンクスのチェナ温泉へ。“ニューヨークのため息”といわれたヘレン・メリルを聴きに「ブルーノート」へも行った。嵐山さん、あの時2人で、山のように買い集めたポルノビデオはどこへ行ったんでしょうね?
句会にも参加し、俳画を描かされ、銀座の画廊で俳画展。そういえば、版画家の山本容子さんと嵐山さんと3人で混浴風呂へ入って、合唱したことも懐かしい思い出です。
嵐山さんは私の命の恩人でもある。あるとき、「定期健診」があるので付き合ってくれないかといわれた。行ったのは“現代の赤ひげ”といわれていた庭瀬康二医師のところだった。私が40代初めの頃。寺山修司をみとったことでも知られる庭瀬医師から「君も診てやろう。まず血圧から」と看護婦のところへ連れていかれた。血圧を測り始めた彼女が悲鳴を上げた。「先生、220もあります」。庭瀬医師も飛んできた。嵐山さんは放っておかれ、私は検査漬けになった。
あの時一緒に行かなければ、そう遠くないうちに脳出血で倒れていたことは間違いない。
私がコロナ禍になる直前に出した自伝風の「野垂れ死に」(現代書館)を送ると、すぐに嵐山さんから電話があった。「おもしれえな~この本。大丈夫なのか、こんなことまで書いて」と、心配しながら喜んでくれた。
嵐山さんは先輩や友人の作家が亡くなると「葬儀の日には故人の著書を読んで過ごすようになった」と「追悼の達人」(中公文庫)に書いている。
私も嵐山さんの訃報を聞いた日から、彼の本を本棚から取り出して読んでいる。命日には、嵐山さんが“末期の献立”と決めていた「レンコンのテンプラ」を食べて偲びたいと思っている。
嵐山光三郎さん、生前のご厚情ありがとうございました。浄土でまた会いましょう。死ぬ楽しみができました。
(元木昌彦/「週刊現代」「フライデー」元編集長)
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