元アイドルとして、女として押さえていた気持ちの末に
「ママー、なんかたのしそう」
お迎えの帰り、麻美は鈴音からご機嫌を悟られてしまった。
とっさに「天気がいいから」とごまかしたが、あながち嘘ではない。
天気が良くて気分が良くなる、そんな健康的な自分になったのは、彼の存在のおかげだった。
何かが始まる、そんな予感。
――何か、って何がだろう?
自問自答、というよりは自分でぼけて自分でツッコむという方がいいのだろうか。自覚できるほど、浮かれているのがわかった。
立川から恵比寿のマンションへ
麻美は次の日、タカミの家を訪れる約束をしていた。配信をお休みして、幼稚園に鈴音を預けたら、その足で彼の家に行くのだ。
白金に近い恵比寿の低層マンションがその場所。川崎にある夫の会社とも、立川の知人の生活圏からかなり離れた場所……誰にも見つかるわけはない。
――家に行くだけ。ただ、家に行ってグッズを見るだけだから。
言い訳をしながらも、彼の想い、そして自分の想いが、ただそれだけではないことを空気で感じとっていた。
『いいんですか? 本当に』
『え……あ、はい』
彼は何度も念押ししてきた。そのたびに麻美は、迷いながらも返事をすることで覚悟を新たにする。
夫には「アイドル時代の友人とランチ」とだけ予定を告げるのだった。
娘の急な発熱で、現実に
子供は大事な時に限って、熱を出すという。
その日の朝、鈴音の体温は38度を超えていた。咳も激しく、幼稚園に登園できる状況ではなかった。
何日も前から楽しみにしていた日。以前からこういうことはあったが、今日だけは絶対に避けて欲しい特別な日だった。
どうせ薬で寝ているし、置いていこうか――。
そんな恐ろしい考えさえもよぎったその時、出社準備をしていた夫が何気なく呟く。
「俺、休もうか? 楽しみにしていたんだろう」
「どうして?」
「当然だろ」
頼ろうとさえ思っていなかった。頭の中が真っ白になった。
一度着たスーツを脱ぎながら、会社に電話する夫の姿を見つめる。
麻美は猛烈な恥ずかしさで体中が熱くなった。
――会いたかった、けど……。
普段は仕事人間で面白みのない男。こんな一言で、見直したわけではないが、それは浮かれていた麻美を現実に戻した。
「大丈夫。すずがこんな状態じゃ、わたし楽しめないもの」
私は所詮、凡人だ
そもそも安定を求めて、この場所に来たはずだったことに気がつく。
新宿から電車で30分。JR立川駅から徒歩で20分ほど。住宅街の狭小住宅。
病院に行って多少回復した娘、そして夫と3人。
開店したばかりのシャトレーゼで買ったケーキを10平米のリビングでつつく。
お昼のワイドショーでは、子供もいる人気女優が不倫をした話題や、仕事から逃亡し突然引退宣言をしたアイドルの話題が報道されている。
他人事のようにその画面を眺めているわたし。
所詮凡人であることを自覚した。
自分の意志で立ち、川の向こう岸へ振り返らずに飛び越えられる人間。
あの世界で生きていくには、意志と思い切りが必要で、自分に欠けていたのはそれだった。すずに熱が出なくても、迷わず行っていただろうか。
「すずね、大きくなったらアイドルになるの」
麻美の過去を知る夫は「甘くないぞ」と5歳児に正論で返す。
「なんでなんでー」と首をかしげる可愛らしい娘の表情を、麻美は柔らかな顔で見守るのであった。
ライフスタイル 新着一覧