まるで異世界。はじめてのパチンコ店で味わう体験
足が震えていた。
建物の前に立つ沙耶は、不安と恐怖に身体の機能を制御されていた。後ろを振り返り、周囲を見回す余裕などはない。
まっすぐに、その中へ足を踏み入れる。
ホッとしたのもつかの間、耳をつんざく爆音が、沙耶を迎え入れた。
分煙とはいえ、タバコの煙が微かに薫っている。空気が重い。ここは、自分の住む穏やかで、風通しのいい街なのだろうか――。今の自分は、主婦・熊田沙耶ではない、ただ存在するだけの物体になったような気がした。
――早く、玉を戻して、帰らなきゃ。
焦る反面、生まれてこの方、縁のなかった場所に自分は今立っている場違いさが心地良かった。ここにもう少し溺れてみたくなっていた。
まるで異世界。
夫が独身時代に暇つぶし程度でやっていたという接点くらいで、沙耶にとっては全く縁のない場所だったのだ。
「ねえちゃん、その台、俺の」
パチンコ台の前に何気なく座っていると、白髪のまばらなおじいさんがやって来て、沙耶を睨んだ。その濁った目の中の生気――いや、殺気なのか――は、沙耶のそれよりもみなぎっていた。
「すみません、はじめて来たもので」
頭を下げて下手に出ると、そのおじいさんは得意げに沙耶を1円パチンコの台まで誘導してくれた。打つ気はなかったが、そのマンスプレイニングに背中を押された。言われるがまま、素直に従う。
後のことは、沙耶の記憶にほとんど残っていない。
気が付くと、そこにあったのは興奮の余韻と、金色のチップが入った小さなカードであった。
私の中で、何かがはじけた
「ママ、最近感じ変わったよね」
ある日の夜、夫が口ごもりながらつぶやいた。外出が多くなった沙耶について、あらぬ方向に想像を膨らませているようだった。
「そうかな…アルバイトはじめて、人前に出るようになったから?」
沙耶は、色付きのリップクリームを塗りながら、彼の疑問に答えた。その奥にある、大きな理由を笑顔で包みながら。人生を堪能するためのノイズは極力ない方がいい。
あの日、あの時。何かがはじけた。
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