神様の怒りポイントは
もちろん自慰行為だってしないに越したことはないですし、それもそれで残念な行為なのでしょうが、それと同等かあるいはそれ以上に、オナンが「神様の目をごまかすために」それをした、ということが神様の怒りポイントだったのじゃないかと僕は思っています。
タマルと子どもを作るふりだけして、しなかった。それをごまかすために自慰行為をした、ということですから。
このように僕たちは、クリスチャンであってもそうでなくとも、表面上の「行為」だけを見て「これは良くないぞ」とか「これはしてはいけないぞ」とか、短絡的に判断してしまうことがあるのではないでしょうか。
しかし神様が「行為」よりも重視するものは「動機」や「心」です。
前述したバベルの塔のエピソードでは、人々が高い塔を建てて神様の怒りを買いましたが、神様が怒ったのは「高い塔を建てた」という「行為」ではなく、「我々は神を超えるのだ」という「動機」に対してです。
「実」と「木」の因果関係
イエスに敵対したパリサイ人たちは、人々の「行為」ばかりに注目してあれやこれやと文句をつけ、自分たちの「行為」ばかりを立派にして、その「動機」や「心」を見ていなかったのでイエスに大いに批判されました。
もちろん「行為」には「動機」や「心」も反映されるものです。聖書の他の箇所には「信仰の実は行いによって現れる」と書いてあります。
ブドウの木はブドウの実しか結びません。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
しかし僕たち人間は時として、しかも思っているよりかなり頻繁に、この「実」と「木」の因果関係を誤認してしまいます。
普通に見れば因果関係がありそうな2つの事象でも、よく精査してみれば、実はまったく因果関係がなかった、とか、因果関係が反対だった、なんてことは、科学や統計の世界ではよく起こることですし、この誤認については何百年も哲学者たちがあーでもないこーでもないと議論を交わしています。
たしかに神様なら「実」から「木」を正しく見ることができるでしょう。しかし僕たち人間には「実」だけから正しく「木」を見ることは難しいんです。
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