【吉祥寺の女・林絵里奈32歳 #2】
かつて漫画家を目指していた夫婦の絵里奈と拓郎。双子の子供ができたことを機に、夢を諦め堅気の生活を暮らしている。
夜勤の介護職員の拓郎(31歳)は多忙で絵里奈はほぼワンオペだが、家族のために働いていると思うと何も言えない。そんな中、妊娠6カ月の絵里奈が急激な腹痛に襲われ、職場に電話をかけると…。【前回はこちら】
◇ ◇ ◇
絵里奈は頭の中が真っ白になった。
「拓郎さんなら、すでに帰りましたよ」
そんなはずはない――改めて家にあるシフト表を確認する。手書きではあったが、間違いなく16時から翌4時までと勤務時間が書かれていた。
「早退ですか? 夫の勤務は朝の4時までとシフト表にあるのですが」
「いやいや0時に退勤しました。そちらの表の間違いじゃないですかね」
「そうですか…」
一度は納得しながらも、いまだ帰宅していない事実がここにある。
電話に出ないのはなぜ?
――帰り際、事故にでも遭ったのかな。
咄嗟にそう感じて、電話を切った。恐る恐る拓郎のスマホに電話をかける。
不通…。
機械的なアナウンスをかき消すように、ツーンという耳鳴りが響いた。不安な心もちと比例するように、下腹部の鈍痛はさらに増す。
耐えきれず、かかりつけの産科医に電話すると、すぐに来なさいと注意を受けた。絵里奈は娘二人と共に救急搬送されることになったのである。
下腹部痛の原因は、医師曰く便秘、ということだった。
妊娠中は子宮やホルモンの働きによって圧迫され、腸管の動きが抑制されるため、痛みを強く感じやすいのだという。
胎児の心拍も異常なし。数時間もすると痛みも引き、すぐに帰らされた。
絵里奈は一安心したが、夜中に無理やり起こされたウミとナミは当然ながら不機嫌極まりなく、夜勤の医師や看護師をてこずらせていた。
それ以上に、気がかりなのは拓郎の状況だ。
帰りのタクシーでスマホを眺めても、折り返しの着信は依然ない。だが、事故や事件に巻き込まれているのであれば、所持品などで警察から連絡が来るはずだと、自分に言い聞かせて気持ちを落ち着かせる。
ただ、彼の無事を心の底から祈る。
夫の明らかな「嘘」に戸惑う
生まれたての小鹿ような、一歩一歩おぼつかない足取りで双子の手をひき、絵里奈は自宅アパートのドアを開けた。
すると…
「おかえりー、コンビニでも行っていたの?」
居間には、クッションを枕にスマホを眺める男が転がっていた。
「拓郎くんこそ。いつ帰ってきたの? 電話したのに」
「ついさっきだよ。今日も山田さんの食事介助に手こずってさぁ。――え、電話? ごめん、深夜だったし、どうせ間違いだと思ってたわ」
窓辺から降り注ぐ朝の陽ざしに照らされた拓郎は笑顔で平然と告げた。
「そう…」
何事もない現実。心から願っていた顛末ではあったのだが…。
「ねー、ママ、眠いよぉ」
「ナミもー」
眠そうな二人の対応で、蠢く疑問点を解決する暇も与えられぬまま、絵里奈はスマホを眺める拓郎に背を向けた。
――食事介助…? 施設を退勤したのは0時なのに?
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