後妻業の女・筧千佐子死刑囚#2(高齢男性4人への殺人、強盗殺人未遂罪で死刑判決)
一滴の血を見ることもなく、遺産目当てに10人もの男性の命を奪って、疑われもしなかった後妻業の女・筧千佐子。逮捕時、千佐子はすでに67歳。被害者たちは、世話好きで明るい千佐子の笑顔に完全にだまされた。【前回はこちら】
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筧千佐子は1946年に北九州の小倉に生まれた。実はもらい子である。そんな生育環境が彼女の人格に暗い影を与えたのかと思ったが、現実にはその逆だった。
千佐子の兄も同じくもらい子だ。千佐子の両親は子どもを持ちたかったのに病気でかなわず、養子をもらって大切に育てた。青春時代の千佐子に暗い影はない。
18歳、最初の挫折「女に学歴はいらない」
千佐子も「両親のことはほんとうに尊敬している」と語っているし、親と血が繋がっていないことも、成人するまで知らなかった。
愛情深い両親に育てられ、進学校に進み、国立九州大学の受験をすすめられた。将来の夢は学校教師、昭和30年代の地方都市では指折りの才女だった千佐子だが、18歳で最初の挫折を味わう。
「妹が兄より高学歴になるのはおかしい」と、父親が受験に反対したのだ。教師になるために勉強し、周囲からも「国立大に行くんでしょ?」と尊敬を集めていた千佐子にとっては泣くほどつらかった。
しかし、これは千佐子の家だけが無理解だったのではなく、昭和の日本では、女性は男性より学歴が低いほうがよいというのが常識だった。
4年制卒の女性は就職も結婚も不利という時代、千佐子のような秀才も昭和の呪縛から逃れることはできなかった。
23歳、第2の挫折「みじめな結婚生活」
千佐子は、進学をあきらめたからといってグレるような後ろ向きな少女ではなかった。大手銀行に就職し、恋愛をし、結婚を決めた。
まだお見合い結婚が主流の時代、恋愛結婚も4年制進学と同じように新しい女の生き方の1つだった。平凡ではない道を選び、努力する――それが千佐子のスピリットだ。
相手は大阪の貝塚市に住む6歳上の男性で、農協の旅行で九州に来て千佐子と知り合った。当時の日本では「女の結婚はクリスマスケーキ」と言われていた。24歳(24日)までは売れるが、25歳(25日)を過ぎたら誰も見向きもしないという意味だ。
千佐子はまだ23歳だったが就職して5年目、結婚して寿退社したいと思いはじめる年頃だった。両家の親の反対を押し切って、千佐子は貝塚へ発った。
恋に燃え、大阪の新天地で人生の新たな幕を開けたいと思った千佐子。しかし、九州の近代化のシンボルである八幡製鉄所のある小倉にくらべて、夫の里は閉鎖的な小さな集落だった。
それなのに、夫の親族は「九州出身者は田舎者」と決めつけ、千佐子を見下した。子どもにも恵まれたが、中卒の夫は親族の会社で安月給で働き、肩身が狭かった。
愛し合って結婚し、故郷を捨てたのに、こんなはずではなかった。「いちばん好きだったのは最初の夫」「でも人生最大の失敗は最初の結婚」と、逮捕後の千佐子は後悔している。
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