【辻堂の女・熊田 沙耶35歳 #3】
これは求めていた幸福なのだろうか
そもそも、すでに自分の生活の中でのぬか床の優先順位が低かったから、当然の末路だ。特に落ち込みはしない。
――いつからだろう。バーキンも、ケリーも、ハリーウィンストンも、欲しいと思わなくなったのは。
買ったとしても、持ち歩く場所がない。ちょっとしたパーティーはまずない。そもそもハイブランドを持つだけで、浮いてしまう一般庶民になってしまった。
都内に暮らし、大手企業や有名人をクライアントに持つPR会社で亜紀らと切磋琢磨していたかつての自分。芸能人とも日常的に会話をするなど華やかな生活の中で、上昇志向と競争社会の波の中にいた。
つい2、3年前のことなのに、別世界の出来事のようだ。
沙耶は、悪臭のする糠にまみれた手のひらを見つめる。
多分、いまは十分幸せな日々のはず。
だけど、これは求めていた幸福なのだろうか。
「ヒヤリ」とした感覚をもたらしたものは…
溜息を吐きながら、腐った野菜を生ごみ処理機に移そうと、底から掻き上げた。
すると、異物の存在感があった。
「なにこれ…」
小さな固い球体。沙耶はつまんで見つめる。間延びした自分の顔から目を逸らす。そしてにわかに思い出す。
ぬか床を作った時、夫の机の引き出しの奥に入っていたパチンコ玉を殺菌して数個入れたことを。
釘をぬか床に加えると、野菜に鉄分が染みて、栄養と鮮やかさが加わるのだという。同じ鉄ならばと殺菌した上で、数個入れたのだ。
――そういえば、パチンコ玉って家に持ち帰ると犯罪だよね…。
その時は意識していなかったが、最近、何気なく見た法律バラエティ番組でそんな話題がとりあげられていた。思い出し、背筋が凍った。とっさに戻しに行こう、と決める。
そんな真面目な倫理観が、この生活がつまらない一因でもあるのだろう。だからこそ波も風も立つことはない閑散とした海に漂流している。
駅前に大きなパチンコ店があったはずだと、家を出る準備をする。その中で沙耶は内心不安と戦っていた。ご近所さんや子供を介したママ友に目撃されたらと思うと…。
しかし、どこか懐かしいヒヤリとした感覚に、再び巡り合えたような気がしてならなかった。
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