「時代とFUCKした男」加納典明(1)56年前、草間彌生と芸術的なクロスをした「FUCK」
写真家・加納典明氏(83)
小説、ノンフィクションの両ジャンルで活躍する作家・増田俊也氏による新連載がスタートします。各界レジェンドの一代記をディープなロングインタビューによって届ける口述クロニクル。第1弾は写真家の加納典明氏です。
◇ ◇ ◇
増田「若い頃から憧れていた典明さんにお会いできて光栄です」
加納「こちらこそ。増田さんの名前は『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』とかの暴れっぷりで知ってます。あれなんか、物凄く話題になったから部数も売れたでしょう」
増田「僕はある意味で典明さん世代の芸術家のチャイルドなんです。だから常に先鋭的でありたい。木村政彦本では先鋭を目指したわけではないですが、結果的にエッジの利いたものになってるのは典明さんたちの影響を多大に受けているからだと思っています」
加納「そう言われるとうれしいね。若い世代の表現者から」
増田「いやいや、もう59歳ですから(笑)」
加納「まだこれから何でもできる。俺なんて83歳だけどバリバリだよ。これからまだ挑戦者としてやっていくよ」
増田「やっぱり典明さんはすごいですね。今回の企画はこれまで他のマスコミを通じて作られてしまった典明さんの背骨の部分、本当の姿に、400字詰め原稿用紙換算350枚から400枚くらいかけて深く迫ろうというものです。1週間かけて大量の資料を読み込みましたが、インタビューとか対談、過去から現在までたくさんの記事が残ってます。でもどれも表面をさらりとなぞったものばかりです。まず尺が短すぎる。400字詰め原稿用紙換算で1枚とか2枚、せいぜい3枚から4枚かな」
加納「そうだね。そんなものだろう」
増田「興味本位ののぞき見趣味で加納典明の姿を歪め、典明さんが誤解されるもとになっています」
加納「どうしてもそうなっちゃうよね」
増田「マスコミの求めに応じて踊らされてエキセントリックに取り上げられて」
加納「1時間とか2時間でちょっとしゃべって撮影してだとそれしかできないからね。向こうが求めてる言葉もわかるからリップサービスしちまう」
増田「あんな短い記事で何が語れるのかということですよ。だから今回は本当にディープにいきたい。最初から核心を言いますと、僕が今回、まずお聞きしたいのは草間彌生さん*のことなんです」
※草間彌生(くさま・やよい):現代日本を代表する芸術家・画家。96歳。1929年松本市生まれ。京都市立美術工芸学校絵画科卒。幼いころから統合失調症の幻覚や幻聴をもとに水玉や網目模様の独特の絵を描きはじめる。1957年に渡米しニューヨークを拠点に男根オブジェなどをモチーフとしたインスタレーションを繰り返す。1969年、渡米した加納典明が乱交パーティーを撮影した「FUCK」が話題となり、日本でも大ブレーク。現在は都内の精神科病院に入院しながら、毎日、門の外に建てたアトリエに通って作品を描き続けている。ルイ・ヴィトンが巨額の権利料で草間の絵をバッグや財布などに採用していることでもその巨匠ぶりがわかる。
加納「ああ。そういうことですか。なるほど……」
個展「FUCK」の挑戦的で衝撃的なエロス
増田「1960年代に典明さんと草間さんがニューヨークで奇跡的な邂逅(かいこう)をし、芸術的なクロスをした。僕がメディアでの典明さんの発言の裏をじっくり読み解いていくときに感じているのはそういう部分なんです。典明さんは写真家というより芸術家という言葉のほうが似合う人です。僕はそう感じてる」
加納「そんなふうに言ってくれる聴き手は初めてです」
増田「だってそうでしょう。草間彌生さんと一緒に出てきたんだから」
加納「それ、前から知ってんですか?」
増田「もちろんです。1969年の『FUCK』ですよ」
加納 (険しい目になって上半身を立てる)
増田 「あの年、ニューヨークで典明さんは草間彌生さんとクロスした。そこで撮った『FUCK』が後々の日本の美術界をぐらりと揺らした。白人男性が黒人男性のペニスをくわえたり、挑戦的で衝撃的なエロスです。男女も男同士も挿入場所がはっきり写ってます。特殊なカラーフィルムを使って、撮影方法も他の写真家では真似できないものでした」
加納「そう。赤外線フィルムを使った」
増田「米軍がベトナム戦争*のために開発した空撮用の赤外線フィルムですね。赤外線は可視光線を遮りますから、さまざまなエフェクト(撮影効果)があったわけですよね。唇が黄色になったり、茶系の髪が赤色になったり、血管が強調されたり」
※ベトナム戦争:1955年に共産主義の北ベトナムと資本主義の南ベトナムの間で起こった戦争。ソ連とアメリカの代理戦争であった。1964年にアメリカ軍が全面的に軍事介入したが、最終的に1975年まで延々と続き、北ベトナムのゲリラ戦に苦戦したアメリカが大敗した。
加納「そうですそうです」
増田「モノクロ写真も当時流行の美しさを蹴ってグランジ(『汚いもの』を意味するアメリカの俗語)な空気感を作ってます。リチャード・アヴェドンやヤスヒロ・ワカバヤシの影響を大きく超えて新しい挑戦をしていますね。ニューヨークへ行ったのは何歳だったんですか」
外国人男性のグラビアが伝説的編集者の目に留まり…
加納「26歳です。名古屋から東京に出てきて、ニューヨーク行くまでは言ってみりゃフリーとしてやってました。それで食うには困らないくらいの仕事はしてた。広告写真を主にーー要するにお金になる仕事はそれこそ雑な仕事から、活版仕事からグラビアから、いろいろやってましたよ。食うだけならそれでぜんぜんよかった」
増田「ニューヨークに移住しようとしたんですか?」
加納「いや。完全に向こうへ行っちゃったわけじゃなくて、あのころ平凡出版が平凡パンチでニューヨーク特集をやろうという企画があったんです」
増田「ニューヨークなんてまだ簡単には行けない時代でしょう」
加納「そう。異国もいいところの時代で。簡単には行けませんよ。それが僕に白羽の矢が立ったんです。なぜかっていうと、その少し前から僕は平凡パンチでヌードを撮るようになってたんです」
増田「平凡パンチがビッグバンの基点だったと」
加納「そういうことになるね。当時、アサヒカメラとかカメラ毎日とか、カメラのアマチュアの専門誌があったんです。そのどっちかの雑誌で僕がグラビアを撮ったんですよ」
増田「女性のヌードですか?」
加納「いや。男。テオ・レゾワルシュというフランスのパントマイマーが日本へ来てて、それを海岸連れてっていろんなとこで撮った。8ページぐらいのグラビアをモノクロで出した。それを平凡パンチの石川次郎*とか椎根和が目に留めていたんですね」
※石川次郎(いしかわ・じろう):1941年東京生まれ。編集者。早大卒後、平凡出版に入社。「平凡パンチ」の編集者として活躍した後、いったん退社。その後、再入社し、「BRUTUS」や「ターザン」などの創刊編集長になって一世を風靡。1994年から8年間、テレビ朝日系列「トゥナイト2」のキャスターを務めた。
増田「お2人とも伝説的な編集者です」
「平凡パンチなんて世の中に害毒をまき散らす雑誌だろ」
加納「その椎根和がバーの飲み友達だったんです。で『加納氏、今度、うちで女のヌード撮ってみない?』って言うわけですよ。だから僕は『おまえさ、平凡パンチなんて世の中に害毒をまき散らす雑誌だろう』って言ってたぐらいなんですよ。ヌードったって現代のようなものはプレイボーイにしてもまだやってなかった。私の2世代上の人たちが撮ってた時代で、巻頭グラビアというのはいかに女性の体を奇麗に撮るか、美しく撮るかというような時代だった。
私の時代というのはもうやっぱり、全共闘じゃないですけれども、言ってみりゃ、若者が社会に対してどう物を申すかという時代になってた。僕なんかはさらに性格的にもそういうとこ強いですから『そんな世の中に害毒を流してる雑誌で撮れるか』なんて言ってたんですけど、しつこく頼んでくるわけですよ。『そういうこと言わずに、加納さん頼むよ』って」
増田「プレイボーイなんかでヌードグラビアはまだなかったんですか」
加納「あったけど、言ってみれば泰西名画の延長みたいな、いわゆる美人ヌードというやつで。で、僕が、じゃあしょうがない、やるかつって2、3本撮ったんですよ」
増田「それが受けたと」
加納「すごく受けて売れたらしいんですよ」
増田「それで69年にニューヨークに行った」
加納「そうです」
(第2回につづく=火・木曜掲載)
▽かのう・てんめい:1942年、愛知県生まれ。19歳で上京し、広告写真家・杵島隆氏に師事する。その後、フリーの写真家として広告を中心に活躍。69年に開催した個展「FUCK」で一躍脚光を浴びる。グラビア撮影では過激ヌードの巨匠として名を馳せる一方、タレント活動やムツゴロウ王国への移住など写真家の枠を超えたパフォーマンスでも話題に。日宣美賞、APA賞、朝日広告賞、毎日広告賞など受賞多数。
▽ますだ・としなり:1965年、愛知県生まれ。小説家。2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞、12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。3月に上梓した「警察官の心臓」(講談社)が好評発売中。
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