【武蔵小杉の女・鈴木綾乃 35歳】
リビングの大きなガラス窓の向こうには、大樹のようなマンションがいくつもそびえている。
その景色はまるで都会の森だと、綾乃はポエムを紡ぐように心の中で形容した。
神奈川県川崎市中原区。武蔵小杉駅のすぐ近く。
鈴木綾乃は、駅前に乱立するマンション群のひとつに夫と子ども2人の4人家族で暮らしている。
昨年、娘・香那の小学校入学と同時に、都内から引っ越して来たこの場所――二人目の子供も生まれたばかり、3LDKという4人家族としては少々手狭だが、要求の多い綾乃がこれ以上に満足する部屋が新築はおろか中古市場に出回っていなかったので仕方がない。
――広さもそうだけど、本当はもっと高層が良かった……。
御茶ノ水での苦い記憶。私は“選民”じゃなかった
40階を超えるマンションの、18階という中途半端な位置。エレベーターが低層階の括りにされてしまうのがもっぱらの不満だ。
「でも、まあ、安かったから…」
安い、と言っても坪300万を超える部屋。このつぶやきは不満を落ち着けるための呪文にすぎない。
綾乃はかつて暮らしていた千代田区の方面を、生後半年の乳児・奏太を抱きながら妬ましげに眺め見た。
もう、はるかに遠くて、見えやしないのであるが。
2年前、綾乃は両親から生前贈与された御茶ノ水エリアのマンションに暮らしていた。そこでの生活は、思い出すのも恥ずかしい記憶だ。
ママ友とはうまくやっていた。しかし、彼女たちが同じ世界の人と思っていたのは、綾乃本人だけだった。
綾乃は自己実現のためと言い訳しながら香那を保育園に入れ、仕事をしていた。だが、周りは、専業主婦、あるいは自らが経営者で、余裕があって当たり前の暮らしをしている人たち。
親の資産を譲り受けただけのサラリーマン家庭の自分とはわけが違った。世帯年収1500万円程度で選民意識を持って生きていた、身の程知らずなふるまいに冷や水をかけられた。
みんな親しくしてくれた。だが、それはやさしさと憐みだったのだ。
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