やりたいことで生きていくことを決めたかおりだったが
かおりは、雑誌の編集部に呼ばれた。そこで、順調だと思っていた連載の担当から、あることを告げられたのだった。
「もっと写真映えするようなものはないですか」
「え…」
何かを含んだような言葉の重みは、かおりの奥にずしんと響いた。
正直に、思い当たらない旨を答えると、担当は大きなため息をついた。
「フルーツが乗っていたり、彩りが可愛いものをインスタで見ましたけど…?」
「フルーツサンド系ですか。存じていますが、私は邪道だと思っているんです。クリームやソースでデコレーションされたのも、華やかでおいしいのですが、好みじゃなくて」
素材の味を生かした手作りのシンプルなシフォンケーキ。それこそがかおりが求めるシフォンのあるべき姿だ。
どれも代わり映えしないのが難点だが、その繊細な違いを見極めることこそ、味わいの醍醐味だと思っている。
「でも読者が求めるのは違うみたいなんですよね。Web版の記事の反応も近頃は微妙ですし…。編集部に送られてきたプレスリリースに、こんなお店があったんですがどうですか?」
無理強いはしないけれど…
渡された資料には、青山に開店したばかりの、シフォンケーキ専門店が掲載されていた。
有名スイーツブランドが手がける店だという。
実はかおりも開店のレセプションに呼ばれ、口にしたことがある。フルーツとパステルカラーのクリームに彩られたそれは、一口で満足してしまうようなインパクトがあった。
「あの、個性を求めているなら、小田原のお魚屋さんを間借りしたシフォンのお店があるんですけど、そこはどうでしょう」
「いや、そういうことじゃ…」
担当はその先を飲み込んだ。一旦、その企画提案は承諾されたが、打ち合わせはわだかまりを残して終わった。
案の定、帰路の電車に乗っていると、担当からメールが送られてきた。
『青山のお店をご紹介できないのであれば、来月は一旦お休みということにして別の方に原稿をお願いしようと思うのですが』
文面をじっと見つめていたら、いつの間にか西荻窪を通り過ぎていた。
そもそも、中央特快に乗っていることさえ気づいていなかった。
いつもの店のいつものシフォンケーキ
◆
かおりは三鷹で降り、歩いて西荻まで帰る。
頭は真っ白に、足は棒になりながら、1時間。いつのまにか珈琲芳村の前にいた。
思わず店の扉を開ける。お決まりの席に座った。
とはいえ、訪問するのは久しぶりだった。
「ヨーロピアンブレンドと、紅茶のシフォンください」
「かしこまりました。砂糖とミルクは…いらないですよね」
この店の心地のいい距離感は相変わらずだ。
時間は18時すぎ。ラストオーダーが近く、客はひとりのみ。
ほどなくして注文のものが届く。香り立つ深い苦みで自分を奮い立たせながら、かおりは現在地をかみしめた。
何かの歯車であることに変わりはない
所詮、自分は何かの歯車であることは変わりなかったこと。
目の前のシフォンケーキはクリームさえ添えられていない。かおりは、ゆっくりとフォークを入れた。
舌に残る苦みがシフォンのほのかな甘さを引き出して、静かな幸福感が心身に染みた。
『こういうので、いいんだよ』じゃない。『こういうのが、いいのだよ』と主張したくなる素朴さが心を落ち着かせる。
「あれ、土井さん?」
店の入り口が開く音がして、入ってきた客が自分の名を呼んだ。
聞き覚えのある声に振り向くと、そこにいたのはパート時代の勤務先社員・宮本だった。
「やっぱり。お久しぶりです」
手にした新しい幸せ
作業着姿のその男は、聞いてもいないのに、最近、この店に通い出したことを語り出した。
「……」
かおりは、なぜか嫌な気がしなかった。
「――宮本さん、喫茶店、お好きなんですか」
思わず尋ねてしまうと、宮本は嬉しそうな顔を見せた。柔らかな、優しい笑顔であった。
「僕、珈琲が趣味なんです。土井さんは」
「私は…シフォンケーキが好きで」
かつて、あれだけ嫌悪感があったことが噓のように、会話を始めていた。
「土井さんは、シフォンケーキが、好きなんですね」
子供部屋の外の世界で、特別な存在ではなかった自分。
だけれど――。
『わたし』は確実にひとりの人間として、存在していることは確かだった。
そう気づけたことを、かおりはふと幸せだと感じていた。
――Fin
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