【阿佐ヶ谷の女#1】
「いらっしゃい、シゲさん今日は早いんだね」
阿佐ヶ谷駅の北口の飲み屋街・スターロードにひっそりたたずむ小さなスナック。
結城紘子は今日も“ひろみ”として、カウンターに立っていた。
「ひろみちゃん、今日は暑いからとりあえず中瓶ね」
「じゃあ、私ももらうー! 喉カラカラなの~」
人見知りが激しい紘子だが、25歳から10年も働いていれば慣れたものだ。容姿は中の上程度ながらも、店の看板娘としていまだ常連からお姫様扱いをされている。
「なら1曲入れるから歌ってよ。久々にひろみちゃんの椎名林檎聞きたいよ」
紘子はまんざらでもない表情でデンモクを操作する。入れたのは十八番の「正しい街」だ。
20年以上前のアルバム曲を歌ってもそれなりに盛り上がるのは、この街ゆえ、という理由があるからだろうか。
演劇、音楽、お笑い。サブカルの匂いが色濃いこの街。一方で、16もある商店街が表すように、生活感や等身大の地元感が漂う。
すなわち、生活とサブカルの匂いがいい塩梅で混じり合っている街なのだ。
女優を目指し長崎から上京→日芸の演劇学科に入学
紘子が女優を目指し、長崎から上京して日大芸術学部の演劇学科に入学したのが17年ほど前。在学中はキャンパスのある所沢や江古田に住んでいたが、卒業を機に阿佐ヶ谷に引っ越してきた。
当時、阿佐ヶ谷スパイダースが好きだった、それだけの理由で。
リーマンショックの影響で、希望する就職口もなく(マスコミしか受けていなかったから当然だ)、卒業後は芝居を続けつつずっとフリーター。
10年前、大学の先輩の紹介で小さな芸能事務所に所属することができたが、最近の表立った活動は年に数度友人が主宰する劇団の舞台に立つくらいだ。
「ひろみチャン、僕の知り合いがテレビ局に勤めているからさ、今度売り込んであげるよ」
「本当ですか、うれしぃいい」
手に取るように分かる業界の内実と社交辞令
マスコミ関係を自称する客・重田の軽口。紘子は笑顔で答えるが、どうせ社交辞令だろう。
それに加え、一個人がテレビ局勤務の者に売り込んでもどうにもならないことは十分知っている。キャスティングはそんな簡単なことで決まらない。
現に、紘子も20年近くこの道にいれば、芸能関係や有名俳優に知人は数多くおり、そのつながりでオーディションに呼んでもらったりしている。
それでも結果を残せていないのが現状だが。
――いつまでこんな生活が続くんだろうな……。
30歳を超えたあたりから、紘子はぼんやりと考え続けている。
ライフスタイル 新着一覧