昔「祭り」→今「炎上」
【vol.23】
前回、古代のギリシア哲学のなかにおいては、失われた自らの片割れを探す《エロス》というものは“本来の自然な姿の自分に戻ろうとする本能”であり、ひたすら原始的で、人間本来の発端である、という話をしました。だからこそ、自らの片割れは同性同士の組み合わせも、異性同士の組み合わせもあり、当然そこには優劣も欺瞞も悲哀もナルシシズムもないわけで、ナチュラルに世界の仕組みの一環として同列にとらえられていたわけです。
しかもむやみやたらに注釈を入れまくっていたので、相当読みにくかったのでは……と思うのですが、どうですか、そうですか、別に読んでない、と。テヘ。
自分の意思に関わらず同じ土俵
とにかくこの現代のデジタルトゥゲザーのなかにあっては、センシティブな話題に触れようとすれば、とりあえず注釈、取り急ぎ留意点、いったん注意事項というリスクヘッジが必要になってきます。猫も杓子もセレブも大統領もインターネットという土俵に立てば、階級、社会的地位、年収、居住地、すべてを飛び越えて同じ土俵に立てることができる。というか、望むと望まざるとにかかわらず、立ってしまうのです。
個別にアポ入れしたら絶対に会ってもらえないような人に、SNSで簡単にモノ申すことができるため、勘違いして同じステージどころか、同じステータスだと思ってしまう人たちが騒ぐ(=炎上)ことが、多すぎる昨今。【昔“祭り”、今“炎上”】として、各々の正義感の怖さが日々の炎上案件を生み、さまざまなクリエイティブが攻撃され、また、破棄されています。
昔の“祭り”は愛も粋も面白さもあったのですが、今の“炎上”は草木も生えない状態にさせるというか、古代ローマにおけるコロッセウムでの殺りく見世物にやんやの喝采状態です。古今東西みんな人が傷つくのを見るのが大好き。
炎上研究部員・小悪魔ドルチェの考察
なにがいいたいかというとですね、炎上研究部員としては毎度の案件を見るたびに、攻撃して叩いている全員が太宰治の短編『恥』に出てくる和子に見えて仕方ないのです。
この短編、ネットで調べればすぐ出てくる上、5分で読むことができるので是非読んでいただきたいのですが、会ったこともない相手を自分より下に見て盛大な勘違いをし、ことごとく自分の正義で突っ走るさまが、どう見ても、今の炎上加害者なわけです。
幸いにも最後の最後で和子は、リアルを知ることができたのですが、そのときの和子の気持ちを引用してみます。
~私は泣きたくなりました。私は何というひどい独り合点をしていたのでしょう。滅っ茶、滅茶。(中略)顔から火が出る、なんて形容はなまぬるい。草原をころげ廻って、わあっと叫びたい、と言っても未だ足りない。~
引用:「太宰治全集4」ちくま文庫、筑摩書房 1988年12月1日第1刷発行
“和子”になれる?
しかし和子のようにこのリアルを知ることができない現代の炎上加害者は《恥》を知らぬまま、日々ひたすら火の元を見つけて徹底的に叩くことを生きがいとしています。振り上げては下ろし方を知らない拳と、行きどころのない正義の“脂肪燃焼”をさせるために見も知らぬ相手と徒党を組んでは、憂さ晴らし……。
批判だらけのナンセンス
古今東西変わらない図といえば図です。しかしなにも創り出すこともせず、できず、批判するしかできない人びとのために注意書きまみれにするというのは、そろそろやめたほうがいいのでは、と思うのです。
120年前に書かれた尾崎紅葉『金色夜叉』の名場面、心変わりした婚約者「宮」を「貫一」が蹴り飛ばす場面で、大量の注釈を入れなくてはいけなくなりそうな近未来。今でさえ、昔の注釈に「現代にそぐわない表現もありますが時代背景を考え」云々と、書かれてありますもの。
なにがいいたいかといいますと(えー本稿2回目)、前回のアンドロギュノス的ジェロントフィリアと、今回の注意書きまみれの令和元年を太宰でリスクヘッジして、次回はひろしの帝王学的エロスと女についてお話したいという、布石でした! 来週(8/2)、回収できるのかな…!? こうご期待!
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