【八王子の女・小林由紀44歳 #2】
八王子の居酒屋で契約社員として働く由紀は、特段面白みのない毎日を過ごしている。元気な学生バイトたちに囲まれ慌ただしい日々だったが、その中で仲良かったバイトの鈴音が、裏で自分を蔑んでいることを知って…。【前回はこちら】
◇ ◇ ◇
由紀は4時間ほど手持無沙汰になった。
バックヤードで事務作業を続けていてもよかったが、バイトの子たちの本音を耳にしてしまったこともあり、どうも同じ空間に居づらかったのだ。
「…あれ、パフェって、こんなに高かったっけ」
暇つぶしに入った喫茶店で、何気なくパフェとエスプレッソを注文すると、その料金は、3000円近いものだった。
フルーツがふんだんに使われた、パフェの値段は単品でも1600円。由紀の時給よりはるかに上だ。
――パフェなんて7、800円くらいだったような。
介護で進学を断念。氷河期世代の苦しみすら知らない
確実に、時代は流れていた。
あの居酒屋に由紀が勤務しだしたのは、高校時代に母親が脳梗塞で倒れ寝たきりになったことがきっかけだ。介護で大学進学をあきらめ、とりあえず目先のお金と通いやすさで職場を選び、ずるずると今に至る。
1979年生まれの由紀は、いわゆる就職超氷河期と呼ばれた世代に属している。
ただ、大卒でもなく、正社員で働くなど考える余裕もなかったため、その苦難を感じることはできていない。ずっとずっと目の前の一日をこなすことに夢中だったから。それは、ある意味幸せなことかもしれない。
勤務する店は、業態や店名は変われど、場所と仕事内容は同じだ。兄が結婚で出て行き、両親が他界しても、暮らす家はそのまま。働けるところがあるだけでもありがたいと思う。
時代に取り残されている?
――まぁ、バカにされても当然か。
学生バイトたちは2、3年で入れ替わり、不安と希望を抱え旅立っていく。自分は何も変化なく置いてけぼりだ。変わろうともしていないのから当然だ。
昔からわかっている。こんな自分はキラキラした誰かの日常の背景にすぎないということを。おそらく、店のバイトたちには10年後は顔さえ忘れられている存在だろう。
「…なんておいしいんだろう」
程なくして提供された、自分の時給以上のパフェを口に運びながら、由紀はそのおいしさににわかに心和らぐ。
クリームの甘さとフルーツ酸味が程よく混じり合った上品な味わいが沁みた。ただそれだけのことなのに、なぜか由紀の心は深く痛んだのだった。
罵声を惨めに感じる暇はない。これも“仕事”。
その日のディナータイムは、学生のサークル飲みが2件かぶり、キッチンもフロアもてんやわんやだった。
「店員さーん、ビールのピッチャーまだぁ?」
「このハイボール、薄いんですけどぉ」
「サラダもういらないから早くさげてよ」
「はい、おまちをー」
由紀は明らかに年下の人間から、命令され急かされ罵られる。惨めになど感じる暇はない。彼らはお金を払ってくれるお客様だ。それが当然だから。18歳の時に、トレーニングで先輩に教わったまま対応しているだけだ。
「ぼったくりだろ! 土下座しろよ!」
レジで高圧的な若者が、学生バイトの美波にすごんでいるのが見えた。その時間帯、社員は自分だけだった。由紀はすぐに駆け付ける。
「いかがいたしましたか?」
理由を聞くと、単に飲み放題の人数を多く打ち間違えたそうだ。美波はすぐに訂正と返金をしたのだが、酒が入っていた男の怒りは罵声だけではすまなかった。
クレーマーの要求通りに土下座。…なにか間違えた?
「結局、いつもそういうやり方してるんだろ」
「一切ございません。大変、申し訳ございませんでした」
「悪いと思っているなら、土下座しろよ」
「…」
「早く!」
由紀はだまって冷たいコンクリートの床に正座し、頭をこすりつけた。
ピ、と録画の音が聞こえた。とにかく、早く解放してもらい、他のお客様対応に戻りたい一心であった。
途端、空気がサッと引き潮になったのを肌が感じる。
――え、私、なにか間違えている?
レジでクレームを訴えた若者や他の客たちのニヤニヤした目線よりも、バイトの子たちの、憐憫(れんびん)の視線が由紀に突き刺さった。
彼らのためを思っての行為にも拘わらず、そんな目で見られるとは由紀は思ってもみなかった。
ライフスタイル 新着一覧