私が影響を与えることなんて、ないんだ
へたりと、誰もいなくなったロッカールームに座り込む。美波を思い、一日中、心に鉛を抱えていたことが馬鹿らしく思えてしまった。
自分の存在が他人の行動に影響を与えるなどありえない。褒められもせず、苦にもされない人生なのだ。おこがましい被害妄想だった。
由紀は立ち上がる気さえも起きない。
――もし、私がそんなことをしたらどうなる?
たとえ衝動でも、非常識だとしても、自分の意志で道を選べる美波が羨ましかった。
由紀は傍らにある彼女の置き土産を見た。大学のテキストである。
美波は文学部で日本史を専攻している。歴史小説好きの由紀にとって、それは多少興味ある分野であった。
由紀はなにげなく手に取り、ページを開いた。
初めての当日欠勤。由紀のなかの扉が開いた
翌日、由紀は20年間で初めて、病欠以外で当日欠勤をした。
理由は適当に取り繕ったが、正直なことを言うと、単に本が読みたかったのだ。
美波が置いていった教科書は、由紀にとって衝撃の出会いであった。
古代から戦国に渡る歴史を市井の風俗の視点から描いたその解説書には、愛読の歴史小説を読むうえで理解できずに読み流していた答えが全てあった。
ひと文字ひと文字が脳に焼き付き、取り込むたびに体中の細胞が活性化されていくのが分かった。
その先を、もっと見てみたくなった。何かの扉が開いたような感覚で――。
私は無敵なんだ。衝動の波に乗ろう
由紀は社会人向けの大学受験予備校に入学を決めていた。
資格系でも職業系でもない学問を今からおさめようとするなんて、バカげていると自分でも思う。しかし、青春を過ごせなかった惨めさが、この閉塞感の源なのだと、教科書を開いた時に気づいたのだ。
幸い、コツコツためた貯金や、ほとんど手を付けていない親の遺産も多少ある。ミゲルと一緒に居られるなら、実家を手放してもいい。
どうせ、自分はいてもいなくてもいい人間なのだ。衝動の波に乗って好きなように行動しても誰も気にはとめないだろう、と…。
退職を申し出ると、あれだけ由紀を邪険に扱っていた店長の態度がコロリと変わり、何度も撤回を懇願していた。
だが、もう知ったこっちゃない。
糸が切れた由紀は、無敵だった。
あの店が閉店。その原因は…?
翌年、春。
由紀はめでたく大学の史学科に合格し、胸を張って女子大生としてユーロードを歩いていた。
「あれ?」
目指す先は、以前勤務していた居酒屋だった。金指のように、OGとして凱旋し、あわよくばバイトとして雇ってもらおうとしていたのだが…驚くことに、その店は脱毛サロンに変わっていた。
なんだ…。でも、閉店が決まる前に辞めていてよかった。
由紀は胸をなでおろす。
店を崩壊させた原因が、実は自分にあることを知らないままで。
――Fin
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