“子供部屋”を出てチヤホヤされて 36歳女性が勘違いから気づいた現在地

ミドリマチ 作家・ライター
更新日:2024-02-10 06:00
投稿日:2024-02-10 06:00

やりたいことで生きていくことを決めたかおりだったが

 かおりは、雑誌の編集部に呼ばれた。そこで、順調だと思っていた連載の担当から、あることを告げられたのだった。

「もっと写真映えするようなものはないですか」

「え…」

 何かを含んだような言葉の重みは、かおりの奥にずしんと響いた。

 正直に、思い当たらない旨を答えると、担当は大きなため息をついた。

「フルーツが乗っていたり、彩りが可愛いものをインスタで見ましたけど…?」

「フルーツサンド系ですか。存じていますが、私は邪道だと思っているんです。クリームやソースでデコレーションされたのも、華やかでおいしいのですが、好みじゃなくて」

 素材の味を生かした手作りのシンプルなシフォンケーキ。それこそがかおりが求めるシフォンのあるべき姿だ。

 どれも代わり映えしないのが難点だが、その繊細な違いを見極めることこそ、味わいの醍醐味だと思っている。

「でも読者が求めるのは違うみたいなんですよね。Web版の記事の反応も近頃は微妙ですし…。編集部に送られてきたプレスリリースに、こんなお店があったんですがどうですか?」

無理強いはしないけれど…

 渡された資料には、青山に開店したばかりの、シフォンケーキ専門店が掲載されていた。

 有名スイーツブランドが手がける店だという。

 実はかおりも開店のレセプションに呼ばれ、口にしたことがある。フルーツとパステルカラーのクリームに彩られたそれは、一口で満足してしまうようなインパクトがあった。

「あの、個性を求めているなら、小田原のお魚屋さんを間借りしたシフォンのお店があるんですけど、そこはどうでしょう」

「いや、そういうことじゃ…」

 担当はその先を飲み込んだ。一旦、その企画提案は承諾されたが、打ち合わせはわだかまりを残して終わった。

 案の定、帰路の電車に乗っていると、担当からメールが送られてきた。

『青山のお店をご紹介できないのであれば、来月は一旦お休みということにして別の方に原稿をお願いしようと思うのですが』

 文面をじっと見つめていたら、いつの間にか西荻窪を通り過ぎていた。

 そもそも、中央特快に乗っていることさえ気づいていなかった。

いつもの店のいつものシフォンケーキ

 かおりは三鷹で降り、歩いて西荻まで帰る。

 頭は真っ白に、足は棒になりながら、1時間。いつのまにか珈琲芳村の前にいた。

 思わず店の扉を開ける。お決まりの席に座った。

 とはいえ、訪問するのは久しぶりだった。

「ヨーロピアンブレンドと、紅茶のシフォンください」

「かしこまりました。砂糖とミルクは…いらないですよね」

 この店の心地のいい距離感は相変わらずだ。

 時間は18時すぎ。ラストオーダーが近く、客はひとりのみ。

 ほどなくして注文のものが届く。香り立つ深い苦みで自分を奮い立たせながら、かおりは現在地をかみしめた。

何かの歯車であることに変わりはない

 所詮、自分は何かの歯車であることは変わりなかったこと。

 目の前のシフォンケーキはクリームさえ添えられていない。かおりは、ゆっくりとフォークを入れた。

 舌に残る苦みがシフォンのほのかな甘さを引き出して、静かな幸福感が心身に染みた。

『こういうので、いいんだよ』じゃない。『こういうのが、いいのだよ』と主張したくなる素朴さが心を落ち着かせる。

「あれ、土井さん?」

 店の入り口が開く音がして、入ってきた客が自分の名を呼んだ。

 聞き覚えのある声に振り向くと、そこにいたのはパート時代の勤務先社員・宮本だった。

「やっぱり。お久しぶりです」

手にした新しい幸せ

 作業着姿のその男は、聞いてもいないのに、最近、この店に通い出したことを語り出した。

「……」

 かおりは、なぜか嫌な気がしなかった。

「――宮本さん、喫茶店、お好きなんですか」

 思わず尋ねてしまうと、宮本は嬉しそうな顔を見せた。柔らかな、優しい笑顔であった。

「僕、珈琲が趣味なんです。土井さんは」

「私は…シフォンケーキが好きで」

 かつて、あれだけ嫌悪感があったことが噓のように、会話を始めていた。

「土井さんは、シフォンケーキが、好きなんですね」

 子供部屋の外の世界で、特別な存在ではなかった自分。

 だけれど――。

『わたし』は確実にひとりの人間として、存在していることは確かだった。

 そう気づけたことを、かおりはふと幸せだと感じていた。

――Fin

ミドリマチ
記事一覧
作家・ライター
静岡県生まれ。大手損害保険会社勤務を経て作家業に転身。女子SPA!、文春オンライン、東京カレンダーwebなどに小説や記事を寄稿する。
好きな作家は林真理子、西村賢太、花村萬月など。休日は中央線沿線を徘徊している。

関連キーワード

ライフスタイル 新着一覧


大谷の“一平ちゃん騒動”で不安 友人との金銭トラブルQ&A~弁護士解説
 ドジャースの大谷翔平(29)の専属通訳を務めていた水原一平氏(39)が、違法賭博に関与したとして球団から今月20日、電...
【スナック超入門編】どんな場所?若葉印のホステスが実感する5大特徴
 みなさんは、そもそも「スナック」がどんなところかご存知でしょうか?  キャバクラやガールズバーとは何が違うの?...
高級クラブのホステス→ギャラ飲み嬢に 面識なしで突然10万円ギフトが…
 経営者や著名人、人気のインフルエンサーも利用する「ギャラ飲み」なるサービスって知っていますか? 東京都内のみならず、全...
「正しくないこと」が「美しくない」とは限らないと知った
 北海道で暮らす、まん丸で真っ白な小さな鳥「シマエナガちゃん」。動物写真家の小原玲さんが撮影した可愛くて凛々しいシマエナ...
松田聖子まさかの中大法学部を卒業! 通信制の学び直しで成功する人は?
 先日、歌手の松田聖子さん(62)が中央大学法学部の通信教育過程を卒業したことが話題になりました。近頃、通信制大学で学び...
瞬き厳禁! 春到来の歓びを表現する黒“たまたま”を見逃すな
「にゃんたま」とは、猫の陰嚢のこと。神の作った最高傑作! 去勢前のもふもふ・カワイイ・ちょっとはずかしな“たまたま”を見...
スタレビの名曲が聞きたい!仏教と深い関係のある「木蓮」とその仲間たち
 猫店長「さぶ」率いる我が愛すべきお花屋は、ただいま卒業式や送別など春特有のイベント仕事で、いつにも増して花まみれの毎日...
“炎上常連”麻生さん級の「ルッキズム失言」していませんか?
 最近、よく耳にするのが「ルッキズム」という言葉です。政治家や芸能人が、何気なく言った一言で「ルッキズム発言だ」と叩かれ...
女の敵は女だから?忘れた頃にぼっ発する「専業主婦論争」をガチで考える
 セックスレスやセルフプレジャー、夫婦の在り方などをテーマにブログやコラムを執筆しているまめです。  X(旧Twi...
職場の同僚ランチが苦痛すぎる…一人の時間を確保する4つの冴えた処世術
 業務内容へのストレスより、職場でのランチタイムが苦痛という人は多いですよね。正直、仕事で疲れているのに、休憩時間まで同...
離婚→シンママになり、心底よかったこと4つ 我慢は美徳っていつの話?
 世間では、離婚してシンママになった女性に対して「かわいそう」「大変そう」といったイメージがあるかもしれません。  で...
春まであと少し?
 残雪の甲斐駒ヶ岳を背にすっかり葉も落ちた葡萄畑  春まであと少しが意外と長い
春のお花と記念撮影にゃ! ウサギみたいなしっぽの“たまたま”
 きょうは、ウサギ君みたい! しっぽの短いにゃんたま君に出逢いました。  しっぽが短い猫は長い猫と比べると、臆病で...
ほっこり癒し漫画/第70回「すぷりんぐファミリー」
【連載第70回】  ベストセラー『ねことじいちゃん』の作者が描く話題作が、「コクハク」に登場! 「しっぽのお...
男と女の物語、だからこそ「娚」の当て字が使われた
 知っているようで意外と知らない「ことば」ってたくさんありますよね。「女ことば」では、女性にまつわる漢字や熟語、表現、地...
「場所代は200円いただくわ」堅実というかケチ!名目別に徴収するママ友
 ママ友と仲が良いといっても、子どもありきの関係。価値観や金銭感覚など、すべてが合うとは限りませんよね。  中には、マ...