過酷な勤務の後、笑顔で帰ってくるけど…
拓郎が勤務する施設は人手不足ということもあり、彼は今、夜勤専従のような状態である。勤務時間は契約上では8時間。
しかし、サービス残業的な雑務があり、いつも夕方には家を出て、朝の9時頃帰宅している。稼げるからだとはいうが、過酷な14時間労働の週6出勤だ。
それにもかかわらず、彼はいつも笑顔で帰ってきてくれる。絵里奈が逆に心配になってしまうほどの明るさで。
「…どうした?」
熱い視線で見つめる絵里奈に気づき、拓郎は顔をあげた。
「いつもお仕事お疲れさん」
「なんだよ、急に。家族のためだから、当然だろう」
「もし、つらかったら隠さずに私に言ってね」
「大丈夫だよ。むしろ働くのは生きがいだから」
拓郎は屈託なく笑い、その表情には一点の曇りもない。
彼の中にある「夢」は消えていない
ひとまず安心した絵里奈だったが、やはり申し訳なく思う。彼の胸の中には、いまだくすぶる炎があることを知っているから。
先ほど、絵里奈は旧友の漫画家の話題を振った。しかし、詳細を聞こうともせず、拓郎は目をそらした。
その時、彼の眠そうな瞳の奥に、いまだ消えぬ炎を見たのだ。
絵里奈もかつて同人誌の世界では名が知られている作家だった。その気持ちは痛いほどよくわかる。いまも、未練がないわけではない。
予想外の妊娠はお互いの責任で、結婚も出産も二人で選んだことなのだけれど…。
――彼が頑張っているんだもん。私も…。
お互いの感謝があるからこそ、昼夜逆転のすれちがい生活やワンオペ双子育児を両親や親戚に頼らず一人でこなせている。
深夜の夜泣き、隣人からの騒音クレーム、買い物もままならない心苦しさ…絵里奈はほとんど一人で乗り切らねばならなかったが、夢を絶って仕事に励む拓郎を思うと歯を食いしばることができる。むしろ、食いしばらなければならない。
――本音はもっと育児に協力してほしいんだけどね。
絵里奈は、現在第3子の妊娠中。今月で6カ月になる。
夫は「帰宅した」との言葉 勤務中のはずじゃ?
そんなある日のこと。
拓郎が夜勤の深夜2時、絵里奈の腹部に鈍痛が走った。
――ん、何この痛み…。
嫌な予感。時計の秒針が進むたびにその痛みは増してきた。
藁をもすがる思いで、彼の勤務する施設にかけてみる。何十コールののち、面倒くさそうな声が電話口に出た。
「はい、“シニアの郷”です」
それは拓郎の声ではない。しゃがれた高齢男性の声だった。
「や…夜分にお忙しいところ本当に申し訳ございません。林の妻です。緊急事態がありましてお電話を」
痛みに耐えながら、しどろもどろな低姿勢で呼び出した。
「ああ、林さん…拓郎さんですね――」
ホッとした、次の瞬間、絵里奈の耳に入ってきたのは信じられない回答だった。
「拓郎さんなら、すでに帰りましたよ」
【#2へつづく:勤務先から聞いた予想外の一言。夫はどこに行ったの?】
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