【吉祥寺の女・林絵里奈32歳 #1】
初夏の印象が霞むほどの汗ばむ陽気の午前中。
林絵里奈は井の頭公園の池のほとりのベンチに腰を掛け、在りし日のデートの記憶をたどっていた。
――井の頭公園のボートに乗ったら別れるって有名なジンクスがあるけど…。
一説によれば、池の社に祀られている女性の神様・弁財天は非常に嫉妬深く、カップルを見つけると呪いをかけるからなのだそう。
「ママー、ありしゃんいたー」
「大きいありしゃん、こわーい」
スワンボートに乗る男女をぼんやり眺める絵里奈の横には、無邪気に遊ぶ双子の娘がいる。名前はウミとナミ。二人は3歳になったばかりで、来年、幼稚園に上がる予定だ。
交際して10年。結婚して4年目。初デートで井の頭公園のボートに乗った相手と絵里奈は家庭を持ち、今もなお幸せに暮らしている。
――なんで私たち、あの時ボートに乗ったんだっけ…。
ふと疑問に思い、当時を思い出そうとする。だが、どうしてもその途中で靄がかかってしまう。
しばし、頭を抱えていると、ウミの泣き声が聞こえてきた。木に正面からぶつかったらしい。
思考は自ずと遮られ、子供の元に身体が動く。駆け寄ると、片割れもつられて泣き出した。
絵里奈の物思いは今日もうやむやになっていった。
漫画家を志していた二人。結婚を機に断念
「うん。『吉祥寺はるみアパート物語』ね。懐かしいなあ」
「取材に付き合ってと言われた私が告白と勘違いして、なし崩し的に付き合うことになったんだっけ」
拓郎は絵里奈の一つ年下。二人は学生時代、吉祥寺在住の漫画家のアシスタント同士として出会った。
プロの漫画家を夢見る者として切磋琢磨していた二人。しかし子供ができ、入籍したことを機に共に筆を折った。
拓郎は現在、介護福祉士として、絵里奈は専業主婦としてこの街に今もなお暮らしている。
一家が暮らす吉祥寺。
「住みたい街ランキング」の上位であるものの、保育園も激戦、家賃も周辺駅に比べたら比較的高い。そのため築50年の安いアパート暮らしだというのに、絵里奈と拓郎はいまだこの街から離れていない。
お互いに引っ越そうとも口に出さない。その吸引力が何なのか、絵里奈はわかるようでわからなかった。
最近の夫はどこか上の空
昼食のたらこパスタを頬張る拓郎はどこか上の空であった。
絵里奈は「もののけ姫」のこだまのようなその表情が心配になり、SNSで見かけた旧友の何気ない話題を投げかけてみた。
「そう言えば、Xで有井ちゃんが描いた漫画がバズっていたね」
「ああ…」
適当に頷いて、口を噤(つぐ)む拓郎。
やはりまだ眠いのかどこか心あらずだ。フォークでパスタを巻きながらも、時折舟を漕いでいる。
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