【吉祥寺の女・林絵里奈32歳 #3】
かつて漫画家を目指していた夫婦の絵里奈と拓郎。双子の子供ができたことを機に、夢を諦め堅気の生活をしている。
夜勤の介護職員の拓郎(31歳)は多忙で絵里奈はほぼワンオペだが、家族のために働いていると思うと何も言えない。だが、拓郎が夜勤と嘘をつき、漫画家活動をしていることを知り…。【前回はこちら、初回はこちら】
◇ ◇ ◇
信頼していた夫が仕事の裏で行っていた秘め事。それは、絵里奈にとって、想像を超えた最悪な真実だった。
自分に内緒で、漫画家活動をしていた彼。
投稿サイトの作者プロフィール欄には、『双子女児の育児に奮闘中! 応援よろしくお願いします』とあるのが目に入る。
――どうして…。
頬を辿る感覚。ひとすじの涙が伝っていた。
夫の「秘密」に浮気より失望
仕事だと偽っていた拓郎への怒りなのか、失望なのか、それとも別の何かなのか。
正直、浮気の方がマシだった。感情が理解できない分、一方的に徹底的に彼を悪者にできるのだから。
「どうしたの、ママ」
ウミとナミが、スマホを手に泣いている絵里奈に気づき、心配そうに覗き込む。
「何でもないよ」
子供を前にすると、不思議と涙は止まる。それを母親の本能だと決めつけたくはなかった。特に今は。
頑丈な鎖の中に縛り付けていた夢――妊娠した時、絵里奈は大手出版社で連載の準備をしている最中だった。苦渋の決断の末に諦め、辿りついた幸せな現在地。今は居心地の悪さを感じながらも必死で踏ん張っている。
――私だって、描きたいのに。
鍵が解かれたように、溢れ出る本音が抑えきれなくなっていた。
彼が現れなければいい…飲み会に潜入
子供を寝かしつけたあと、冷蔵庫の前に貼ってある彼のシフト表を見た。今日も16時から仕事だった。終わりは翌9時。
疑いを持ちながら、“先生”のSNSを再び覗く。
「…」
その日の夕方、拓郎を“仕事に”送り出したあと、絵里奈は久々に子供を連れて、東急裏に繰り出すことにした。
吉祥寺の東急裏はどちらかというと、街の中でも感度の高い若者が多いエリアだ。そのせいか、子供が生まれてからはほとんど近づいていない。用事は狭い範囲でコトが済む駅周辺やサンロードで一気に済ませられるからだ。
絵里奈はその中にあるエキゾチックな匂いのするアジア料理店に足を踏み入れた。
“先生”のSNSのやりとりを解析したところによると、どうやら今日この場所で拓郎が参加予定の飲み会が開かれるようなのだ。
こんなおしゃれな店は久しぶりだった。
吉祥寺は、夢溢れる若者と、日常を生きるファミリーが交差する街だ。それだけに、今風のアジアンダイニングでありながらもキッズメニューがある子供OKな店だったことが幸いだ。
会をぶち壊してやろう、そんなことは思っていない。ただ単に体が動いた。
ここにSNSの約束通り、彼が現れなければそれでいい。きっと、あの漫画もアカウントも何かの見間違いだと言い聞かせられるから。
本当に、本当にそれだけで。
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