【大崎の女・石塚 華34歳 #3】
大崎の高層マンションに暮らす華は、テレビ局に勤める夫・大輔と二人の子供に囲まれ悠々自適な専業主婦生活を送っている。毎日テレビとネット三昧で暮らしているが、その正体は下世話な記事を書くライター。だが、同級生が本格派の小説家として評価を受けていることを知り…。【前回はこちら】【初回はこちら】
◇ ◇ ◇
『喫茶・ふきだまり』
ここは、学生時代の私のお気に入りの場所だった。
スペシャルティコーヒーに目覚めたのも、たまたま入ったこの店がきっかけ。ゼミの担当教授に作品を酷評され、何もかも投げ出したくなった時にいつも引き寄せられていた。
老舗の名店で長年修業したマスターが丹念に淹れた珈琲のキリリとした苦みは、学生時代の緩んだ私の心を引き締め、いつも前を向く力を与えてくれた。
焙煎所を兼ねたその店は、卒業後しばらく遠ざかっているが、いまだに誰にも場所を教えたくない隠れ家だ。
豆の選別から、焙煎、熟成、カップのデザインに至るまで、じっくり丁寧にコーヒーに向き合っているマスターの味をまた口にすれば、今の自分を見つめ直すことができるかもしれない…。
タクシーから降りた私は一直線に店に向かい、一歩踏み出した。
好きだった珈琲店は変わってしまった
戦後まもなく建てられたという倉庫を改造した、ツタが絡まる建物。見上げるだけで、あの頃のまっすぐな気持ちに戻ったような気分になる。
多少小ぎれいになった気がするが、そこだけ時間がとまったような雰囲気を醸し出していた。
「いらっしゃいませ。ご予約は」
重い扉を開けるなり、白いシャツにネクタイを合わせた男性店員に尋ねられた。
「いえ」と首を振ると、当然のように店員は答えた。
「申し訳ございません。当店は予約のみでございます」
「――え」
聞けば、空間と品質の維持のため、3年ほど前から予約制になったという。店員の身なりもいつの間にか洗練されており、内装は今風になっていた。
どうやら口コミとメディア露出で評判となり、今では海外からもお客様が尋ねてくる有名店となっているそう。飛び込みは不可。カフェタイムは2カ月先まで予約で埋まっているとのことだ。
私は「コンビニのコーヒー」みたいだ
「…わかりました」
いいものは、必ず誰かに見つけられる。
嬉しいような寂しいような感傷に打ちひしがれながら、私は素直にその場を後にした。
――何やっているんだろう。私。
自分に問う。答えは出ない。
手持ち無沙汰な心の余白を埋めるべく、近くにあったコンビニに寄る。
ビターな想像で充満していた口内をごまかすべく、110円のドリップコーヒーをPayPayで購入した。
値段相応のコクある味わいで相応に落ち着いて、大人しく帰路につく。だけど、タクシーの中で紙カップを傾けながら思う。
結局、自分は、自分の書くものは、このインスタントのコーヒーなのだと。
その情けなさに胸が詰まった。
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