「私、まだ終わってない」45歳、気持ちはアラサー。変わり続ける渋谷で“迷走する女”が見た現実

ミドリマチ 作家・ライター
更新日:2025-12-13 11:45
投稿日:2025-12-13 11:45

【渋谷の女・谷 綾女・45歳】

 ひさしぶりに 来た渋谷は 少しだけ昔と 違ってみえる…。

 なんて、思わず替え歌を口ずさんでしまうくらい、この街の風景は私の記憶のなかのものとだいぶ違っていた。

 ――いつから、ここはお土産屋さん通りになったんだろうか?

 かつてはトレンドの発信地だったはずの、センター街…いや、バスケットボールストリート。結局、センター街呼びでもいいらしいが、とにかく2025年の現在、そこを我が物顔で闊歩していたのは、ガングロギャルでも、ギャルソンに身を包んだ専門学校生でも、原色系をまとった不思議ちゃんでもなく、スーツケースを引きずった肌や髪の色が多様な人々だった。

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昇進は、現場から外れされるということ

 堂々と道の真ん中を歩く彼らと、肩がぶつかる。私は「sorry」と小声で頭を下げ、逃げるようにわき道に入り、109の方面へ抜けていった。

 見覚えのある通りに出たが、右手の道の奥にあるはずのものがなくなっていることに気づく。そういえば、そうだった、と、だいぶ前にニュースで見た東急本店閉店の情報を思い返し自己完結した。

 ぽっかり抜けた道の先。憧れだったそこに見えるのはただの夕焼け空。もうこの街には、シネマライズも、ブックファーストも、CISCOもないらしい。

 思い出に浸り、呆然と立ち止まりたかったが、人波に押されてそれもできなかった。渋谷は、意志がなくちゃ歩けない、そんな街だ。

 私は109前のスクランブル交差点を抜け、南口の方面に向け足を踏み出した。

 新卒の頃は就職氷河期だった。200社受けて全落ちし、なんとかバイトで中堅の出版社に拾ってもらって、社員になって、しがみついて20年あまり。

 今、私は季刊で発行しているカルチャー誌の編集長をしている。――来年には、そこから離れることになったのだけれど。

 つい昨日、社長直々に昇格の打診があった。肩書は編集局長。いわゆる管理職となるのである。

 信頼のおける部下たちにこのことを話したところ、彼ら、彼女らは私の出世を自分のことのように喜んでくれた。でも、求めていた反応はそれじゃなかった。

 管理職になるということは、現場から外れるということ。残念だ、と惜しんでくれると思っていた。

 今日のランチミーティングでは、さもその申し出を受け入れること前提で上層部の方々に迎え入れられた。目の前に置かれた野田岩のうな重に、私は手を付けることができなかった。

「少し時間をください」

 タヌキのようなおじさま方の、狐につままれたような表情は、ずっと私の脳裏に焼き付いている。

45歳、あと5年で50歳という現実

 もう、45歳。

 だけど、精神年齢はまだアラサー。32歳の部下を同世代扱いして、苦笑されたことがあるくらい、感覚はまだ若い。

 結婚していないし、子どももいないということもあるだろう。類友なのか、今付き合っている友達も自分と同じような未婚キャリア女性がほとんど。だから、というのは言い訳なのか…。

 立ち止まってあたりを見回せば、同年代の仲間はみな会社を去っていた。

 独立して会社を立ち上げたり、フリーランスになった友達も多い。セカンドキャリアだと、介護の学校に通い始めた元同僚もいる。私はまだ、セカンドどころか、ファーストの道すがらの気分なのに。

 ――あと、5年で50歳なんだよな…。

 具体的な数字を考えるとゾッとする。平均寿命であれば、すでに折り返し地点を超えている。知人の訃報を聞くことも増えてきた。

 ――いや、45歳なんじゃない。あたしはレベル45っ!

 年齢は単なる数字であることを、心の中で念を押す。気休めだけど、前を向く。無理やりでも私には必要な作業だ。

 これから、20年ぶりにある場所を訪れる。そこは、渋谷駅から徒歩5分、明治通り沿いの古びた雑居ビル。

 再開発で来年には取り壊されるらしいその場所にあるのは、“Bar iris” バー アイリス。アイリスは、英語でアヤメの花をさす。5月生まれの私と同じ名前のバーである。

懐かしいメアドからの連絡

『年内閉店のお知らせ』が届いたのは昨日の夜だった。

 懐かしいメールアドレスからの連絡に、私はその差出人を二度見した。

 文面は、一斉送信のそれだったけど、リストの中に自分の宛先がいまだ含まれていた事実は、ショックに打ちひしがられていた私の心を優しく包んだ。

 別に、何も期待していない。ただ、三軒茶屋の自宅までそのまま帰る気になれず、久々に途中下車した。

 “彼”に、忘れられていないだろうかという不安は一抹ある。動悸を抑えながら、朽ちたビルの階段を上った。

 フライヤーやステッカーが隙間なく貼られた扉はあの頃のままで安心した。ノスタルジーに背中を押されて、重いノブを回すと、薄暗い光がさした。

「おお、ひさしぶり」

 マスターである“彼”は、まるで1週間前に顔を合わせたばかりかのように、私を笑顔で出迎えてくれた。

「メールが来たから。いい?」

「もちろんだよ」

 中上崇。私が昔、愛した男。彼は、構えることなく私に問いかけた。

「ご注文は?」

「…じゃあ、ビールで」

 私も普通を装って答えると、彼はうっすら苦い顔を見せる。

昔のいつもの笑顔。薬指に指輪はなかった

「ごめん、アサヒしかないけど、いいかな?」

「え?」

 ふと、思い出す。あの頃の私は、黒ラベルしか飲まないという妙なこだわりを持っていたことを。もう、とっくにどうでもよくなっているのだが。

「なら、ハイボールでいいよ」

 昔のいつもの笑顔で彼は頷いた。

 客席はカウンターのみで10席ほど。私の他に、お客さんは2組いる。1人は男性、あとは30代くらいのカップルだった。いずれもお酒を飲むというより、空間を楽しみに来た常連さんのようだった。

「タカさん、知り合い?」

「ああ、まあ、昔の、ね」

 崇は男性客の問いに、含んだような笑みを浮かべた。我が物顔で端の席を陣取っている黒縁メガネにニット帽のその男は、若作りしているがたぶん年上だ。年齢は態度の大きさに出る。

 常連面をしているが、その男は私がこの店の第一号の客で、一番の古参だということを知らないだろう。バーの名の由来になった女だということも。

「入ってきた途端、妙な雰囲気になったから、マスターの奥さんかと思った」

「鋭いね。でも奥さんって、いつの話だよ。ハハハ」

 かき消された会話に意味深な空気を感じ取る。私が彼と会っていない連絡をとっていない20年、何があったのだろうか。

 そんなこと、今の自分にとっては、どうでもいい話。

 だけど、おもむろに、彼の左手を見てしまう。あるはずのしるしは、そこになかった。

 わたしの中で、何かが動きだす予感がした。

ミドリマチ
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作家・ライター
静岡県生まれ。大手損害保険会社勤務を経て作家業に転身。女子SPA!、文春オンライン、東京カレンダーwebなどに小説や記事を寄稿する。
好きな作家は林真理子、西村賢太、花村萬月など。休日は中央線沿線を徘徊している。

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