【高円寺の女・浜口沙恵32歳 #3】
【#2のあらすじ】
ミュージシャンの沙恵は高円寺に暮らし、毎晩芸人の卵や音楽仲間と飲み歩いている。高円寺はうんざりするような現実から解放してくれる街なのだ。だが、仲間のひとりが引っ越しを宣言し…。
結婚宣言から1カ月後。たかぴーは本当に高円寺を出て行ってしまった。
私は、いまだにあの店にいる。
「――もしかして、好きだったんじゃない?」
くだを巻く私を横で茶化すのは、NYから帰ってきたばかりのナベさんだ。
「んなわけないじゃないですか。彼女いるの知ってたし。なんか、さみしいだけですよ」
「はいはい」
仲間がこの街を出て行く。それは今までもよくあったこと。
結婚だけじゃなかった、もう一つのサプライズ
さらに私を驚かせたのが、彼がお笑いの大きな賞レースで決勝に進んだという報告だった。
それをきっかけにプロポーズしたのが、彼の結婚のいきさつだという。
「結局、あいつもこの街を捨てちゃったんだなって…」
「捨てるわけじゃないでしょ。彼の成功が励みになったりしないの?」
「しませんね。苛立つばかりで」
私がキッパリと言い切ると、ナベさんは大きな声で笑った。
「さっすが。そう来なくっちゃね、沙恵ちゃんは」
妙に嘲笑じみていたので、私もカチンと来てしまった。
「人のこと言えるんですか」
「言えねーな。でも、こんな俺でも、あの人みたいにならないようにだけは気を付けてるよ」
ナベさんが小声で囁いた目線の先に、この店のカウンターの主がいた。
カウンターの主の過去
志島さんである。
今日も彼は、コの字の奥の、ちょうどひとり座れる席で水割りを傾けていた。
聞くところによると、彼は昔、役者を目指していたそう。第三舞台、夢の遊眠社などが活躍した1980年代の小劇場ブームの時からこの街にいるのだという。
「ここは、ハマったら抜けられない街だからね。『ずっとこのままでいたい』って、魔法がかかっちまう」
サブカルへの造詣があり、年相応には見えない容貌、でも近くに行くと確実に年齢を重ねていることがわかる、志島さん。
いつもひとりで呑んでいて、物欲しげな遠い目で私たちを見つめている。
その視線にどこか気持ち悪さを感じることもあったが、昔の仲間や自分を重ねているのだろうか、とそれを聞いた今、胸がキュッとなった。
「別に…このままでも、いいじゃないですか」
反論するように告げると、ナベさんは私の空になったコップにビールを注いだ。
「いいと思う。この街がどんなに変わっても、沙恵ちゃんはずっとここにいて、いつまでも俺たちの宿木のような存在でいてくれてもいい」
何も言えず、私は注がれたすべての量のビールを飲み干した。
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