【中野の女・久我真弓34歳 #1】
久我真弓はひとりベッドに潜り、寝室で恋人を待っていた。
空気も冷たい午前0時。惰性で続けていたスマホゲームのレベルが200に到達する。真弓は伸びのついでに小さくガッツポーズをした。
特に嬉しかったわけではない。
ひと区切りつけるきっかけができてホッとしたのだ。
「そろそろ帰ってくる頃だよね…」
静かにつぶやくと、言霊の力なのか、鍵を開ける音が聞こえた。
真弓はベッドから出て、玄関に向かう。
「あれ、待っていてくれたんだ」
同い年の恋人・藤島マサキは、野方にある制作会社に在籍し、映像作品の監督をしている。
「おかえり、マサキ。撮影どうだった?」
「どうもこうも。相変わらずの現場だよ。与えられた仕事をやるだけだし」
監督と言えば聞こえはいいが、劇場公開された長編映画は自主制作時代の1作だけ。今はアーティストのPVや深夜ドラマの演出、大御所映画監督の下での助監督が主な仕事だ。
かつては自主映画界隈で数々の賞を取り、今も知る人ぞ知る有名人の彼。くすぶっている現状であるものの、その才能を真弓は変わらず信じている。
「もしお腹減っているなら何か作るけど」
「悪い。ありがとうな」
申し訳なさそうに微笑む正樹に、真弓も同じような表情を返す。彼の腰にそっと手を添えてふたりはダイニングへ向かった。
無防備な寝顔に抱く優越感
真弓が幸せをかみしめながら作ったレトルトのパスタ。そんなものでも、マサキは「おいしい、おいしい」とぺろりと平らげた。
その後、彼はいつものようにヨギボーと一体化した。相当疲れているのだろうと真弓は眠りに落ちる男の頬をそっと撫でた。
現場での彼は、真面目で隙のない仕事ぶりだと聞く。マサキのこの様子を知るのは、世界でただひとり自分だけだ。この優越感は、真弓の生きる糧であり、未来である。
――マサキはいつか、レッドカーペットを歩ける人だから。
頑張っている彼のことを思うと、毎晩遅い帰りを待つことも苦ではない。
交際して12年。その先へ進む気配は全くないのだけれど。
才能ある彼を長年支える健気なワタシ…だけど内心は空虚で
12年前、大学時代に交際を開始したマサキとは、この中野のマンションに暮らし始めて7年が経つ。
真弓は今年34歳。新宿の旅行代理店に勤めている派遣社員だ。
今の仕事は好きでも嫌いでもない。出世を目指しているわけでもないし、個人的な将来の目標も特にない。
趣味も、しいて言えば映画鑑賞くらいだろうか。
社会が男女同権だとか女性の社会進出だとかを推奨しようが、真弓にとってそれは他人事である。真弓の今後の一生は「マサキの才能を支えていくこと」だと考えれば、無関係な問題だ。
友人との会話でよみがえる苦い記憶
◆
「結婚は、したいんだけどね…」
友人・優華の質問に、真弓は遠い目で回答した。
休日の中野ブロードウェイ前にあるミスドは、今を夢中で生きる若者のざわめきに溢れている。アラサー女子のアンニュイな会話はどこか場違いだ。
「なら、自分から言ってもいいんじゃない?」
「今はダメ。彼は誰もが知る代表作を撮ってないじゃない? 来年には自分の映画を撮るとも言っているし…」
非難が混じった大きな溜息が店内に響く。周囲の客は無反応の振りをしてくれるのが有難い。
優華は大学の同級生だ。5年前に結婚し、出産して、今はフリーで子育てとエンタメ系のライターをしている。
自由気ままで豪快な性格は真弓と正反対だが、そこが心地よくて、こうやって定期的に会える数少ない友人だ。
当然、付き合いが長い分、マサキのこともよく知っている。
赤の他人であれば大きなお世話だが、この関係性なら結婚の話もタブーではない。それ以上に、自分への純粋な心配を感じる。
そんな親友だからこそ、真弓は宣言するように伝えた。
「誰が何と言おうと、結婚以上の優先順位は、彼が夢を叶えることだから」
優華は何か言いたげだが、まぎれもない本音だ。理不尽さもない。
彼が成功しなければ、結婚の幸せも意味はない。その賭けに自らの意志でベットしている自覚もある。
焦燥感がないとは言い切れないが…。
「今日は、なんか言われると思っていたよ」
一度、彼の前でその気持ちが溢れ出てしまったことがあった。マサキの困惑の表情は今も脳裏に焼きついている。
去年のクリスマス。マサキはラグジュアリーホテルの高層階にある、フレンチレストランのディナーに招待してくれた。
このシチュエーション、期待しないわけがなかった。
眼下の煌びやかな夜景に見とれ、極上の料理に舌鼓を打ちながら、言葉を待った。
しかし――特別何もなく。
ただそのまま店を出て、電車で帰宅した。
嬉しさ半分、その傍らにある虚しさが、ソファに腰かけた途端に漏れた。
「今日は、なんか言われると思っていたよ」
テレビをつけようとしていたマサキは固まった。リモコンを手にしたままで画面は何も映らない。彼の想像にたやすい動揺ぶりに、真弓は罪悪感をおぼえた。
「ごめん…考えてはいるけど」
沈黙の後のしどろもどろが重くて、「わかってるよ、十分」と聞きわけのいい女は微笑んで、洗面台へと向かった。
コンビニで彼の好物を買って…
◆
あたりも暗くなり、真弓と優華はレンガ坂にある呑み屋に流れた。
しかし入店もつかの間、優華の子供が熱を出したと、30分ほどで店を後にすることになった。怒りはない。マサキの話をしていたら、無性に彼に会いたくなったので真弓にとっても都合が良かった。
今日は“撮休”だと聞いている。
コンビニで彼の好きなアメリカンIPAとペッパーベーコン味のクラッツを買った。呑み足りない分はふたりで晩酌しようと心弾ませ、帰宅する。
――あれ?
見知らぬパンプスが
玄関ドアを開けると、異様な空気を感じた。
ほのかに匂う、華やかな匂い。マサキ以外の誰かの気配…。
目を下ろすと、マサキの靴の横に、艶のあるパンプスが綺麗にそろえて置いてある。インソールにはハイブランドのサインが見えた。
「…」
真弓は音も立てずに、その場からいったん離れることにした。
この街の駅前には何でもある。
しかし、どこにも行くあてはなかった。
【#2へつづく:まさか、彼が浮気…? 街をさまよった真弓は――】
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