【八王子の女・小林由紀44歳 #1】
八王子は21の四年制大学・短期大学・高専があるという。
全国でも学園都市として広く名が知られ、学生の数はおおよそ9万人。道を歩いているだけで、何かを学ぶ若者にぶつかる、そんな街だ。
「――すみません」
「ボーっと歩いてるんじゃねえよ、ババア!」
小林由紀は、すれ違いざまに若い男から暴言を吐き捨てられた。
その男もまた学生だろう。彼が持っていた大きなトートバッグから、カットマネキンが顔をのぞいていた。
――ババア…ですか。
由紀は久々に自分の年齢を数えてみる。たぶん44歳くらい。
30を超えてからは自分が何歳なのか、頭を働かさなければ答えられない。その数の大きさに改めて驚いた。
今は、数字を重ねているだけの、繰り返しの日々だ。
18歳から20年、ありふれた光景が続く
「2番テーブル、ジョッキ3つお願いします」
ユーロードの雑居ビル3階にあるチェーン居酒屋は、由紀の数少ない居場所だ。
高校を卒業した18歳でアルバイトで入り、契約社員として10年目の副店長である。勤務歴は足掛け20年を超え、店では最古参である。
「鈴ちゃん、15番のお会計まだ? わかった、私が行く。え、友田君休み? そんなの聞いていないんだけど」
その日は学生バイトの当日欠勤が2人出て、60席ほどのフロアを3人で回す羽目になっていた。ともに就職活動が理由だ。ひとりは面接、もうひとりは本命企業の最終面接が明日に迫り、準備のために休みたいということであった。
ガチャーン!
――突然、フロアに皿の割れる音が響く。ヘルプで手伝ってくれていたキッチンの子がバッシング中にバランスを崩したようだ。
「大変申し訳ございませんでした!」
他のフロアのスタッフたちと機械的に声を揃えて叫び、由紀はその後始末をしに向かった。
これは、ため息も出ぬほどの、由紀のありふれた光景である。
ガクチカ、合コン…若者の話で疑似体験を楽しむ
「由紀さん、昼間にそんなことがあったんだぁ…。同じ美容学生として、ごめんなさい」
「謝らないでよ。鈴ちゃんは関係ない」
閉店作業が終わった後のロッカールームで、由紀は、男に怒鳴られた件をぼやいていると、バイトの美容短大生・鈴音から丁寧に頭を下げられた。
鈴音は彼女が高校生の頃から働いてくれている真面目ないい子だ。色白の黒髪ツインテールがトレードマークで、その愛嬌の良さで店長や地域のSV(スーパーバイザー)はもちろん、お客様からも人気の看板娘である。
「でもぉ…許せませんよ。私の由紀さんに!」
「ボーっと本を読んで歩いていた私が悪いから。買ったばかりの小説が待ちきれなかったの」
「え、何ですかその後出し情報。歩き本していたんですか」
「歩きスマホならぬ歩き本って…なにそれ!?」
鈴音はキャハハと高い声で笑った。
由紀は彼女に対して、年齢を超えた親近感がある。疲労感だけが募る毎日だけど、乗り越えることができるのは、バイトの子たちとのこういう交流があるからだ。
サークルにシューカツ、ガクチカ、合コンにデート。
由紀がしてこなかった経験を、生き生きと彼らは話してくれる。聞くだけで疑似体験をしているような元気が湧いてくるのだ。
一軒家で猫と暮らす日々
「ただいまー…」
暗い玄関の明かりをつけると、ニャーと、ミゲルが由紀を出迎えてくれていた。
すでに両親ともに亡くなっている由紀は、北島三郎の豪邸からほど近い住宅街の一軒家にひとり、猫のミゲルと共に暮らしている。
明日の出勤はランチ営業前の11時。欠勤予定のバイトの子からシフトの穴埋め連絡はいまだ来ていない。そのまま通しで勤務することになるだろう。
居間に出しっぱなしのコタツの中に身体を落ち着けると、眠気がガクンと襲ってきた。そのまま由紀はミゲルと共に目を閉じる。
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