【八王子の女・小林由紀44歳 #3】
八王子の居酒屋で契約社員として働く由紀は、信じていた学生バイトに蔑まれ、客の若者にも罵られる日々。見かねた学生バイトの美波は「努力不足」だと叱責するが、そんなことがあっても由紀は不思議と何の感情も起こらないのだった…。【前回はこちら、初回はこちら】
◇ ◇ ◇
木曜の朝の4時過ぎ。
愛読している歴史小説を開いても、なかなかページを進めることができず、こんな時間になってしまった。
――「なんで現状に疑問を持たないんですか? 貪欲に、わがままになってください」――
由紀の頭の中を、美波に言われた言葉がぐるぐる回っていた。
言葉のチョイスに、多少の胡散臭さを孕んでいたが、これだけ自分に響いているのは、一理あるからだろう。
「できないんだよ…」
吐き捨てるように由紀は呟く。
手が届かないことを知っている
日々がんばって生きてきたからこそ、がんばっても手の届かないものがある。一生懸命生きても生活に変化ない自分がその証拠だ。成功体験のない人生経験としてはっきり焼き付いている。
すると、ミゲルがニャーとか細い声を上げて寄って来た。
将来への不安はある。もし、現在働く居酒屋がなくなったら…。そんなこと、考えるだけでも恐ろしい。だから、考えないようにしている。
44歳は命が尽きて初めて「若い」と形容される不思議な年齢だ。かといって、漠然とした不安までには至っていないから厄介だ。
ふたたび、ニャーとミゲルが鳴く。
このまま出勤時間まで眠ってしまったら、彼の食事のタイミングを逃すと由紀は焦り、早めに皿にカリカリを盛った。
まっしぐらにかけてきて、おいしそうに頬張るミゲル。今を生きることだけしか考えていない、そんな彼に共鳴し、由紀は波打つその背中を優しく撫でた。
バイトを辞めたのは私のせい?
由紀は、昼前には目を覚ました。珍しく、LINEのメッセージ着信があったからだ。その内容は、寝ぼけまなこを完全に覚醒させた。
『すみません、バイト辞めます。ロッカーの中のもの全て捨てていいです』
送信元は美波だった。
由紀は慌ててメッセージを返すが、いつまで経っても返信どころか既読はつかなかった。
――もしかして、私のせい?
昨日美波に叱責された言葉がよぎった。
そして、きっとそうだと由紀は確信する。彼女のように高学歴で意識が高い子は、客前で素直に土下座をするようなみじめな人間の下で働きたいなんて思わないだろうから。
店から電話をしても、当然、出てくれなかった。
胸の奥に鉛のような重いものを抱えたまま、由紀はその日の仕事をこなす。
こんな日に限って、お客様は絶え間ない。ただ、憂鬱なことを考える暇はなかったため、その点ではよかった。
――しかたないか…。
真相を聞いて、張りつめていた何かが途切れた
閉店後、早くも諦めて美波のロッカーを片付けた。すると、大学の教科書と思しき書籍が数冊入っていた。由紀は今日もそそくさと帰ろうとする鈴音を呼び止める。
「ねぇ、鈴ちゃん。美波ちゃんに連絡できたら、店に教科書があるって言ってくれるかな。私だと出てくれないの」
美波の名前を出した時点で鈴音の顔は淀んだ。
「できないです。あの子が辞めたの、私のせいですから」
「え、どういうこと?」
聞けば、美波はバイトのOB・金指に片思いをしていたのだという。鈴音が彼と交際しだしたことで、いざこざがあったそうだ。
「なるほど――」
「昨日も、イライラして仕事になっていなかったし」
プツン。
それを聞いて、由紀の中で張りつめていた何かが途切れる感覚があった。
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