映画「国宝」ヒットの背景…古典芸能を扱いながら幅広い観客の心を掴む
吉田修一の小説を李相日監督が映画化した「国宝」が大ヒットしている。侠客の息子・喜久雄(吉沢亮)と、役者としての彼の才能を見抜いて引き取った、上方歌舞伎の重鎮・花井半二郎(渡辺謙)の息子・俊介(横浜流星)が、切磋琢磨して芸の道を究めていくこの歌舞伎役者映画が、なぜこれほど人気を集めているのだろうか?
現存する日本人が撮影した最古の記録映画は、9代目・市川團十郎と5代目・尾上菊五郎が演じた「紅葉狩」(1899年)で、映画と歌舞伎の関係性は古い。初期の映画界は、血筋を重んじる歌舞伎界では名題の役者になれない歌舞伎役者を迎え入れ、彼らを時代劇のスターにすることで隆盛を極めていった。無声映画期に1000本の映画に主演した尾上松之助に始まり、戦後の市川雷蔵や中村錦之助(萬屋錦之介)まで、歌舞伎界から映画界入りしたスターは多い。ただ初期の歌舞伎の演目を映像でなぞらえたものから、映画は独自の映像表現をするメディアへと変化し、映画で歌舞伎そのものを見せることは少なかった。役者の芸で見せる歌舞伎と、カッティング処理した映像で人物の心情や物語を語る映画は表現の仕方が違う。そういう意味で「国宝」のように歌舞伎の演目を見せ場にしながら、役者の人生を描いた映画はまれである。
「国宝」の魅力は吉沢亮と横浜流星が、徐々に深度が増していく歌舞伎役者としての芸に説得力があり、さらに映画俳優としても芸のためなら悪魔に魂を売ってもいいというほど、芸道を突き詰めるキャラクターを演技で表現できていることだ。通常、ベースとなる歌舞伎役者の部分をクリアするのが技術的に難関だが、2人はその壁を飛び越えてみせた。その芸と演技に魅せられた人は多いだろう。
“荒事”を得意とする江戸歌舞伎と“和事”の世界の上方歌舞伎
次にこれが上方歌舞伎の世界を描いていることも、成功の要因だ。江戸歌舞伎は武士や鬼神を荒々しく演じる“荒事”を得意とするが、上方歌舞伎は女性的な動きで恋愛描写をする“和事”の世界。喜久雄も俊介も女形役者で、彼らの美しさを強調した映像も大きな魅力。しかも歌舞伎の演目全体を映像に収める「シネマ歌舞伎」とは違って、ここでは喜久雄と俊介の演目に懸ける思いが、映像と一体になっている。演目全体の中から演者としての彼らが最も美しく見える瞬間、一番感情が乗った動きにカメラは寄っていき、観客が見たい映像を見せてくれる。これはチュニジア人のソフィアン・エル・ファニをカメラマンに起用したこともポイントだ。
かつてダニエル・シュミット監督が坂東玉三郎を捉えたドキュメンタリー映画「書かれた顔」(1995年)でスイス人の名カメラマン、レナート・ベルタを起用し、踊りの美を強調して玉三郎の「藤娘」などを写し撮ったことがあったが、海外の人にもわかる歌舞伎の美の瞬間が、この映画にも収められている。翻って言えば、その映像は歌舞伎に関して素人の日本の観客たちにも十分アピールするものになっている。
130年近い時を経て溶け合った歌舞伎と映画
またこれは喜久雄が15歳の時から約半世紀を描いているが、その時代背景の大部を占めるのが昭和の時代。芸を究めるためなら、喜久雄にとっても俊介にとっても、女性たちは人生の踏み台になって消えていく存在だ。見上愛や高畑充希、森七菜が演じる女性たちの悲しみや切なさの描写を最小限に絞って、喜久雄と俊介の関係性にフォーカスした物語の構成が、今の時代にこの作品を成立させる上で好ジャッジだったと言える。
2人の役者を取り巻く男女間のドロドロとしたリアルにまで手をつけたら、ここまで胸に響く歌舞伎役者の芸道映画にはならなかっただろう。演じた俳優の芸と演技、外国人カメラマンの見たいものを見せる映像、そして監督の見事な物語構成。これらが一体となって「国宝」は古典芸能を扱いながら、幅広い観客の心をつかむものになった。最初の出会いから130年近い時を経て、ようやく歌舞伎と映画は一つに溶け合った作品を生み出したのである。
(映画ライター・金澤誠)
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