【中野の女・久我真弓34歳 #2】
34歳の真弓は若手映画監督のマサキ(34)と交際している派遣社員。交際は10年以上、マサキとの結婚を夢見ている真弓だが、仕事で駆け出しの彼からは全くその話が出てこない。そんな中、家に帰ると女性の靴が玄関にあり…。【前回はこちら】
◇ ◇ ◇
サンモールを何度、往復しただろうか。
気がつくと、真弓は中野駅前の喧騒の中にいた。
子供の熱で慌てて帰った優華を呼び戻すことはできない。だからといってひとりきりでお店に入って時間を潰す気にもならなかった。
――何かの見間違いかもしれない。
だからといって、すぐに自宅に戻るのは気が引けた。
玄関で目に入ったのは、明らかに女性もののパンプスだった。
高価で、センスの良さが一目でわかる靴。綺麗に揃えて置いてあったことから、礼儀正しく品のいい人なのだろうと想像できた。
――浮気…まさかね。
頭に回るのは、その2文字。
しかし、いくら恋人が昼間から出かけ、友人と夜まで留守にしているとしても、同棲中の部屋に連れ込むという詰めの甘いことをするだろうか。
それに、彼はただの美人になびくほど、単純な男性ではないはずだ。
自己評価が高い男なだけあって、自身を認め、支え、盛り立ててくれる女性が好みであることを、“私”の存在が証明している。
自分の存在が証明する彼の好み
真弓は、交際開始当初を思い出す。
大学時代は自主映画界で有名人だった彼。才能と自信が溢れ出ている男の子で、射止めるのに大変な労力を要した。
深い世界観を持っていて、付け焼刃の色仕かけでなびくような人ではなかった。キャンパス内でひとめぼれした真弓は彼が所属する映画サークルに潜入し、じわじわと長い時間をかけアプローチした。
そして苦労の末、卒業間際に恋人の座を勝ち取った。
今でも出会った頃の思いは変わらない。マサキの才能が輝けるなら、生活の全てを捧げても構わないし、そうしている。
時代錯誤な女であると理解しているけど、多様性を重んじる社会であるなら、古風な価値観の人間だって認められていいはずだ。尽くしているのは、自分の意志なのだ。
――撮影スタッフの女性と緊急で打ち合わせしていたとか、かもしれない。
思考回路を停止にする
正常化バイアスの最適解が見つかったところで、真弓は帰宅することを決めた。
『あと5分くらいで家に帰るよ。ブロードウェイのあたりにいる』
LINEを入れると、すぐに既読がついた。いつもの了解スタンプが返ってきてホッとした。
それでも、自分がなぜ、現在地の詳細を送っているのか、真弓は理解しながらも考えないようにしていた。
帰宅した真弓を出迎えた彼の第一声は…
帰宅すると、何事もなかったかのようにマサキは真弓を迎え入れた。
「おかえり。早かったんだね」
「そうかな? もう22時だけど――」
「はは。こっちの業界って時間間隔、狂っているからね」
どうやら一旦帰宅したことに気づいていないようだ。
人が訪れていたことに対する言及もない。本当に何もなかったんだ、と真弓は彼の笑顔をのみ込んだ。
出かける時より片づけられた綺麗なリビングを見回す。マサキ曰く、「今日は一日中、ずっと掃除をしていた」のだという。
空気清浄機も、食器洗浄機も勢いよく稼働していた。
真弓はいつもはしない家事をしてくれた彼に心からの感謝の言葉を告げた。
「ありがとう。助かるよ」
「いやいや、毎日真弓には迷惑かけているから」
その夜のマサキは温かくて優しかった。
真弓は、彼の胸の中で、幸福に浸る。
結婚なんてワガママ言わないから、彼がいつまでも自分の隣にいて欲しいと、神に祈るように願うのだった。
人気女優の熱愛相手は自分の恋人
だが、その出来事から2カ月後――。
マサキが地方への長期ロケで、1週間家を空けている時のことだった。
『町田ユキ、新進気鋭の映画監督と熱愛発覚』
水曜日の夕方。帰宅の途にあった真弓は、中央線のつり革片手に開いたSNSのニュースに目がとまった。
実力派人気女優の町田ユキさん。
彼女がアイドル歌手時代に出した曲のPVをマサキが手がけていた。そして、売れてもなお、マサキを現場に呼んでくれているお得意さんだ。
興味本位で、真弓はリンクを何の気なしにクリックする。
六本木の交差点でキスをする町田ユキ。まるで映画のワンシーンのようだ。
――あれ、この隣にいる男性って…。
キャプションで『新進気鋭の映画監督』と適当に形容されていた相手は、真弓のよく知る男性であった。
「物わかりのいい彼女」の終焉
ロケからマサキが帰宅するなり、真弓はその件を尋ねた。彼も、覚悟をしていたようだった。
「仕事で関わるうちに本気で好きになったんだ。真弓の存在も伝えずにそういう関係になって…」
まっすぐに真弓を見つめ、マサキは告げる。町田ユキとは半年前に交際を開始したという。
「つまり…」
別れて欲しい、ということ。マサキは真弓の問いにゆっくりと頷いた。
「彼女とは結婚も視野に入れている。近々発表するつもりだよ」
相手側の事務所や、マサキの所属会社とも既に話し合いが住んでいるという。報道で名前も出ているため、双方の活動に悪影響を及ぼさないための早めの結論でもあるようだ。
「やだ…」
物わかりのいい彼女として12年間過ごしていた真弓。珍しく告げたワガママであったが、返答は求めていたものではなかった。
「ごめんな。わかっているよ。ずっと待っていてくれたんだもんな」
「わかっていたなら、好きな人ができた段階でどうして言ってくれなかったの?」
「わかっていたからこそ、だから」
真弓の気持ちが重くて伝えられなかったということなのだろう。
その気持ちは痛いほどわかったし、思い当たる罪でもあった。
“間女”を演出した?
きっと、あの時、彼女をうちに連れ込んだのは故意的な部分があったのだろう。一度帰ってきたことも、実は気づいていたのだろうか。
結局、追及はできなかった。その臆病さも彼にとっての重みなのだろう。
「この家は落ち着くまで住んでいていいから。家賃は気にしないで」
最後の優しさは、刃のように、真弓の胸を突き刺した。
明らかに手切れ金の代わりだと思えたから。
【#3へつづく:自分が犠牲となった幸せな結婚報告。あることを決意する真弓】
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