吉祥寺は2駅も先なのに…嘘をついた千佳の本心
千佳と正信は食事を終えるとそのまま帰路についた。
もう1軒の余裕がある時間だったが、家まで1時間かかる上に、都心の駐車場代は高いから仕方ない。
まだ物足りなそうな妻の様子を察した正信は、わざわざ都心環状線内回りを通る。芝公園付近、東京タワーが見えるあたりで、千佳は目を輝かせた。
「千佳はネオンとかタワーが好きだからね」
「ありがとう」
うっとりと瞳に映るのは東京タワーのライトアップ、湾岸エリアのマンション群、レインボーブリッジ。
千佳は故郷の夜空の星の光より、人工的なネオンが好きだ。
そのひとつずつに、人の息遣いを感じることができるから。
割り切れない現実
運河の向こうにそびえる塔に住んでいるのはどんな人だろう、と思いを馳せる。
少なくとも自分たちより余裕ある人であることには違いない。
――あの無数の光のひとつにも、私はなれない…。
「どうしたの? 飲みすぎた?」
愛車・トヨタハリアーのハンドルを手にする正信は、隣で顔を曇らせた妻を気遣った。千佳は優しい夫の思いやりを無にしないよう、首を振り口角をあげた。だが、内心は憂鬱なままだ。
車はしばらく都内を走り、首都高速から中央自動車道を経て自宅まで続く天文台通りに入っていく。
煌めきとはかけ離れた、信号と街灯だけの暗い道が続く。理想の世界から現実にたどり着くまでの移動時間はあまりにも長い。
未だ割り切れない現実を千佳はかみしめる。
本当はもっと都心に住みたかった
武蔵境に住み始めた理由は、よくある金銭面の問題だ。二馬力で頑張れば千佳の望む都心に家を購入できないことはなかったが、堅実思考の正信に押し切られたのだ。
メガバンク勤務といえど技術職で、年収は今のところ大台に満たない彼 。千佳も同様だ。お互い実家は普通のサラリーマン家庭で、格別裕福なわけでもなく、親に頼ることはできなかった。
賃貸でも千佳は構わなかったが、夫婦ともに33歳という今の年齢ならローン審査も通りやすいからと説得され、結局、都下に3LDK・ファミリータイプのマンションを購入することになった。
「ハァ…」
見慣れた鮮やかなロゴが溢れる駅前が見えてきて、千佳は静かにため息をついた。
チェーン店が並ぶ街は、地元・群馬の中心地と変わらない無個性さ。東京都のほぼ真ん中に位置しているはずなのに、先ほどまでいた西麻布の雰囲気からは程遠い。
――本当は、もっと都心に住みたかった。
独身時代の研ぎ澄まされた感覚はなかなか抜くことができない。
いつかは慣れると思いながらも、慣れたくはない自分がせめぎあう。
暗がりの窓には、精気を失った女の顔が映っていた。
【#2へつづく:千佳の前に湾岸在住の専業主婦が現れる。その女は…】
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