私だって夢から醒めたくない
この街にいる限り、夢から醒めることはできない。
不便を感じても、この街に居続けたのは、お互いに夢から醒めたくなかったから。
だけど…
「ママー、だっこ」
「ナミもー」
「…ねえ拓郎くん、一人くらいは抱っこしてよ」
二次会に向かう面々に後ろ髪ひかれながら、井の頭公園を通ってマイホームに向かう帰り道――小走りで追いかける妊婦をよそに、物思いにふける拓郎の背中は、いまだ醒めない夢追い人だった。
「あ、そうだね。大丈夫? 手伝うよ」
一方、絵里奈の中では、別の何かが醒める感触があった。
「大丈夫なわけない。てかつまり、どういうこと? 今日の仕事は?」
「…」
彼は答えない。そしてどこか逆切れしたような冷たい空気を醸し出している。
井の頭公園は午後9時。井の頭池にかかる七井橋を互いに無言で歩きながら、闇の中でしっかり係留されているスワンボートが見えた。
絶望の先に明るい光が見えてきた
絵里奈もいまだ途中の人だ。
描かなければ生きていけないのは一緒。いまは一時的に自らをあやめているだけ。
そして帰宅後、拓郎はこれ見よがしにタブレットで作業をし始めた。一方、絵里奈は眠そうな子供の寝かしつけのため、寝室へ直行する。
3時間後、ことを終えてリビングに戻った絵里奈は、なおタブレットと向き合う拓郎の背中を無言で眺め、飲み会で耳にした仲間の言葉を思い出す。
『今はいつでもどこでも描けて、発表もできる時代で良かったですね』
中央線の、まっすぐ伸びた線路の奥には絵里奈の実家がある。
お腹の子と、幼児の双子を抱えた失望と不安だらけのストーリーの行く末が頭の中をめぐる。
絶望を辿りながら思い描いていると、その先になぜか明るい光が見えてきた。
それは…。
――私も液晶タブレットを買おう。いい漫画が描けそうな気がする。
弁財天様に見つかっちゃったかな
脳内に、ネタのイメージが数多に降り注いできた。主人公は私、そして子供たち。登場人物に夫の姿はない。意識を失っていた漫画家としての魂が回復してくる。
夢はふたたび動き出した。
「ついに弁財天様に、見つかっちゃたかな」
絵里奈はそっと呟く。
初めてのデートと、最終回を脳裏にはっきりと思い描きながら。
Fin.
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