「私の心の中にある『故郷』は誰にも譲れない」に心を揺さぶられ、「帰郷」の歌詞を急遽朗読した

更新日:2024-06-07 17:03
投稿日:2024-06-07 17:00

【松尾潔のメロウな木曜日】#88

 先週木曜(5月30日)の朝、東京地裁へ行った。56歳にして初めての裁判所である。若いころに法曹の道に進むのもいいなあと漠然と憧れたこともあるが、気づけば裁判とはまったく無縁の人生を過ごしてきた。文章を書いたり話したり歌を作ったりして糊口を凌いでいるが、筆禍や舌禍に発展するような仕事内容でもなく、婚姻や相続で裁判の世話になったこともない。いわゆる犯罪や交通事故を起こしたり巻き込まれたりした経験もない。ま、今のところはね。ついぞ裁判所に行くことのないまま一生を終える人って全人口の何パーセントくらいかな。そんなことをぼんやりと考えながら地下鉄霞ケ関駅の長い長い通路を急いだ。

 法廷に足をはこんだのは、ある裁判を傍聴するため。在日コリアン3世の69歳の男性・金正則さんが、SNS上で差別的投稿を繰り返されたとして、高校の同級生に慰謝料などの損害賠償を求めて起こした訴訟の第1回口頭弁論だった。社会問題に関心の強い読者なら、この春ネットで拡散した〈「在日の金くん」ヘイト訴訟〉というニュースをご記憶かもしれない。提訴日(3月29日)の緊急記者会見には、法政大学前総長の田中優子さん、ジャーナリストの有田芳生さん、弁護士の宇都宮健児さんも同席。この錚々たる顔ぶれをみれば、事件の本質が「同級生間のトラブル」なんて生易しい言葉で括れるようなものではないことがすぐに理解できるだろう。「差別はなくならないとも言われますが、私はこれまでの歴史の中で育まれ蓄積されてきた日常的な差別意識を、次の子どもたちの時代にまで継承させることだけは止めたい」と話した金さんが、自分の身に及んだ災いを個人的な問題として終わらせずに、広くマイノリティ当事者への風当たりを変えたいと考えていることは明らかだ。

 ぼくがこの訴訟を知ったのは、記者会見から10日後。本連載を単行本化した『おれの歌を止めるな』(講談社)のプロモーションでYouTube番組『デモクラシータイムス』に出演した際、収録後のスタジオで司会の池田香代子さん(ベストセラー『世界がもし100人の村だったら』でも知られるドイツ語翻訳家)から「松尾さんは福岡の修猷館高校のご出身ですよね?」と訊かれた。ええそうですよ、と答えたら「修猷館の同窓生のあいだで裁判が始まるのをご存じですか」と意外すぎる言葉が返ってきたのである。それからYouTubeにアップされていた先述の記者会見を見て、ようやく事件の概要を知る。怒り、悲しみ、そして恐怖。それらがないまぜになった感情が沸きあがってくるのを抑えることができなかった。

 面識もないまま、金さんとメールをやりとりした。話しぶり同様、痛ましいことを綴るときでも筆致からはどこか涼しげな印象が漂う。深い知性としなやかな感性、高い言語化能力に起因するのは明らかだった。そんな人の懊悩はいかばかりか。自分が金さんに人間的興味を抱きはじめていることに気づいたぼくは、口頭弁論をこの目と耳で確かめたくなったのである。

 法廷は傍聴席が20席程度だった。原告・被告とも有名人ではない民事裁判としてはいたって標準的らしいが、集った傍聴希望者はその倍ほど。事件への注目度の高さが窺われる。座れない人は室外へ出されるのが原則…だが判事は立ち見を黙認するという粋なはからいをみせ、ぼくを含む希望者全員が傍聴できた。原告側弁護士の神原元さんによれば「弁護士になって20年以上経つが初めて」という超異例の対応。ラッキーでした。法廷にも弾力性があることを目の当たりにして、ぼくの気持ちはずいぶん和んだ。被告が出廷しなかったのは残念だったけれど。

 初めて会う金さん。意見陳述は一語たりとも聞き逃せないものだった。「反日」という判別や排除を意味する言葉に「在日」「朝鮮人」という属性を結びつける被告の発言に怒りと恐怖を感じると述べ、植民地下の苛烈な時代を生き抜いて日本に来た両親の不遇を語り、宮崎県延岡市で幼年時代を過ごした自分の原風景を鮮やかな語彙で修辞した。文学的、あるいは詩的でさえあった。説得力に満ちた陳述に傍聴席からはすすり泣きが聞こえてくるほどだった。

 閉廷後、裁判所の真向かいの日比谷公園にある千代田区立日比谷図書文化館で行われた記者会見&報告会に、ぼくは原告(と被告男性)の同窓生として登壇した。与えられた10分間では、まず自分が金さんの立場にも被告男性の立場にもなり得る可能性(と危険性)について語った。だからこそ、自分は加害者になっていないかと胸の中でつねに警鐘を鳴らしながら生きていく必要があると。その後は……じつは、金さんの意見陳述にあった「私の心の中にある『故郷』は誰にも譲れない」に激しく心を揺さぶられたぼくは、そのあまり、予め用意していたいくつかの話をすべて捨てたのだった。そのかわりに、天童よしみさんに提供した「帰郷」の歌詞を急遽朗読した。音楽を生業とするぼくから原告へのアンサーソングとして。

 また会見ではやはり同窓生でぼくの2つ先輩にあたる英国在住のライター、ブレイディみかこさんが送ってきたメッセージも読み上げられた。その中で彼女が被告のヘイト投稿を「人道の観点のみならず、法的にも許されないことを明確に主張していかなければ、日本は『人権問題に難がある国』という対外的印象を裏付けすることになってしまう」と言いきったのは特に印象的だった。この会見の全容もYouTubeで観ることができるので、ぜひご視聴いただきたい。

 日本人で初めて国連性差別撤廃委員会の委員に就任した林陽子弁護士は、世界的に複合的な差別が強く意識されるようになった現代においては、もう個別の差別だけをみるだけでは対応しきれないと言う。あらゆる差別を禁止するためにはヨーロッパの多くの国と同じように「包括的差別禁止法」の導入が必要であると。ぼくも同感だ。次の国政選挙では、候補者がこのことに積極的であるかどうかも厳密に見極めたい。

(松尾潔/音楽プロデューサー)

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