【西荻窪の女・土井かおり36歳 #1】
工場内に終業のチャイムが鳴った。
機械の停止音とともに「お疲れさまでした」が飛び交う。
同じロゴの入った作業ジャンパーを着た群れの中に、土井かおりの姿はあった。
36歳、独身、実家暮らしで彼氏はなし。
勤務は月曜から金曜の9時から17時まで。時給は東京都最低賃金の1113円。西荻窪と上井草のちょうど中間あたりの小さな印刷工場内の作業場で、ダイレクトメールや請求書などの印刷や封入封緘をするのが主な仕事だ。
10年以上、毎日同じようなことの繰り返し。
だが、特段不満はない。
業務も手慣れており、同じパートタイムの同僚とは家族のような関係性、金銭的にも贅沢をしなければ事足りているから。
5歳年下の男から漏れ出る偏見
「土井さん、30分ほど残業できます?」
かおりが手洗いから出てロッカーに向かおうとした時、社員の男・宮本に呼び止められた。
「いいですが…他の人は?」
「頼めるのは土井さんだけなんですって。時間、ありますよね」
かおりは一旦承諾したことを後悔した。
この5歳年下の男から漏れ出る、自分に対する偏見を察したから。おそらく独身で恋人もいない実家暮らしの自分を、『無趣味でヒマを持て余す子供部屋おばさん』と勝手にカテゴライズしているのだろう、と。
自分を除いたほとんどが主婦パートであるこの職場。声をかけられるのは仕方ないことかもしれないが…。
しかし、近頃何かと入用だったため、僅かながらも臨時収入は魅力的であった。
「わかりました」
かおりは一旦脱いだジャンパーを渋々羽織るのだった。
平坦な毎日の中の宝箱のような時間
「ふぅ…」
仕事を終え工場の自転車置き場でスマホの時計を見ると、18時を少し過ぎたあたりだった。
――今日は“珈琲芳村”の新作シフォンをチェックしに行く予定だったのに…。
“珈琲芳村”は、西荻窪駅北口から徒歩5分くらいにある、初老の女性店主が営む喫茶店。こだわりのコーヒーと季節のスイーツが名物で、かおりは昔から通っている。
かおりの趣味はシフォンケーキの食べ歩き。
大好きなシフォンとともに古本屋で買ったミステリーを楽しむ。それはかおりにとって平坦な毎日の中にある宝箱のような時間である。
店のラストオーダーは18時半である。急げば間に合う時刻だった。
――まあいいか。昨日届いたお取り寄せのシフォンがあるし…。
好きなことだからこそ、ミッションのようにこなさないのが美学。
暗い夜道の中、ともしびのような小さな楽しみに向かって、かおりは帰路を急いだ。