「世帯年収1500万じゃ恥ずかしい」御茶ノ水からの“都落ち”…武蔵小杉のタワマンを選んだ女のプライド【武蔵小杉の女・鈴木綾乃 35歳】

ミドリマチ 作家・ライター
更新日:2025-09-13 11:45
投稿日:2025-09-13 11:45

【武蔵小杉の女・鈴木綾乃 35歳】

 リビングの大きなガラス窓の向こうには、大樹のようなマンションがいくつもそびえている。

 その景色はまるで都会の森だと、綾乃はポエムを紡ぐように心の中で形容した。

 神奈川県川崎市中原区。武蔵小杉駅のすぐ近く。

 鈴木綾乃は、駅前に乱立するマンション群のひとつに夫と子ども2人の4人家族で暮らしている。

 昨年、娘・香那の小学校入学と同時に、都内から引っ越して来たこの場所――二人目の子供も生まれたばかり、3LDKという4人家族としては少々手狭だが、要求の多い綾乃がこれ以上に満足する部屋が新築はおろか中古市場に出回っていなかったので仕方がない。

 ――広さもそうだけど、本当はもっと高層が良かった……。

【関連記事】千代田区民は“勝ち”だよね。通勤ラッシュを知らない自分は上流階級層の女【御茶ノ水の女・鈴木綾乃33歳】

御茶ノ水での苦い記憶。私は“選民”じゃなかった

 40階を超えるマンションの、18階という中途半端な位置。エレベーターが低層階の括りにされてしまうのがもっぱらの不満だ。

「でも、まあ、安かったから…」

 安い、と言っても坪300万を超える部屋。このつぶやきは不満を落ち着けるための呪文にすぎない。

 綾乃はかつて暮らしていた千代田区の方面を、生後半年の乳児・奏太を抱きながら妬ましげに眺め見た。

 もう、はるかに遠くて、見えやしないのであるが。

 2年前、綾乃は両親から生前贈与された御茶ノ水エリアのマンションに暮らしていた。そこでの生活は、思い出すのも恥ずかしい記憶だ。

 ママ友とはうまくやっていた。しかし、彼女たちが同じ世界の人と思っていたのは、綾乃本人だけだった。

 綾乃は自己実現のためと言い訳しながら香那を保育園に入れ、仕事をしていた。だが、周りは、専業主婦、あるいは自らが経営者で、余裕があって当たり前の暮らしをしている人たち。

 親の資産を譲り受けただけのサラリーマン家庭の自分とはわけが違った。世帯年収1500万円程度で選民意識を持って生きていた、身の程知らずなふるまいに冷や水をかけられた。

 みんな親しくしてくれた。だが、それはやさしさと憐みだったのだ。

高みにいられそうな「都落ち」を決断

 綾乃は、耐えきれずすぐに『都落ち』を決断した。大手企業に勤めるサラリーマンの夫・孝憲を言いくるめ、家を売りに出した。立地の良さやご時世もあり、すぐに買い手がついたはよかったが…。

 ――本当は豊洲が良かったなぁ。

 ただ、税金や諸費用を考えても、武蔵小杉のこの部屋であれば住み替えによって億を超える利益が得られることが大きかった。

 そうすれば、娘を私立小学校に入れられる余裕ができる。しかも、神奈川は都内よりお受験に対する意識が低い。通学圏にある名門学校でも倍率が比較的低いことも魅力だった。

 なにより、綾乃自身が高みにいられそうな場所であるのだ。

やっと見つけた自分の居場所だが…

 引越しが決まり、ひとまず安心したのか、第2子を妊娠した。香那も駆け込みで大手のお受験塾に入れさせることができ、めでたく鎌倉にある私立小学校に合格した。

 仕事も辞め、無事に男の子も産まれ、今は子育てに専念する悠々自適な日々である。

 その日も綾乃は、下の子の赤ちゃん教室で出会った5人ほどのママ友を、マンション内のキッズラウンジに招待して交流を楽しんでいた。

「みなさん、これどうぞ。いただきもののクッキー」

 綾乃はわざわざ予約して買いに行った赤坂の有名店・テーベッカライのクッキーを、涼しい顔で彼女たちに差し出した。

「これ、すごく有名なクッキーじゃないですか」

「奏太くんママって、もしかしてセレブ? お姉ちゃんも私立なんですよね」

 尊敬のまなざしを向けるママ友に向けて、綾乃は口元に手を添え、隙間から白い歯を見せた。

「そんなことないって。普通のサラリーマン家庭だって」

 謙遜ではなく、正直に告白する。このエリアの人たちは、タワマンに住んでいれど、庶民的な感覚を持つ人がかなり多く、その点は綾乃にとって居心地がよかった。

 中の上。ボリュームゾーンよりも、少し上でいたい自分にとって、ちょうどいい――資産がある分、その中でも優越感を持って過ごすことができている。

この「ファストファッション」の女は誰?

「あの…突然すみません」

 すると、部屋の隅でじっとしていた女性が会話に割って入ってきた。さっきから、目線をチラチラ向けている人がいるのを綾乃は感じていた。

「お受験はどちらのお教室でしたか?」

 赤ちゃんを抱いた、黒髪で一重の地味な顔立ちのママさん。にもかかわらず安っぽい原色系のファッションで、自分たちとは違う空気感を悟った。

「はい?」

「突然すみません。ゆるりとお受験するのもいいかなと思って、いろいろお伺いしたいんです」

「ゆるりとお受験」の言葉に苛立ち

 綾乃は戸惑った。『ゆるりとお受験』なんて、甘い考え方だと。うっすら苛立ちさえおぼえた。

 小受をしてもいいのは、それが当然だと思っている親だけだ。周りはみんなライバル。目覚めさせてはいけない。

 一言で意識や価値観の差が露呈することを、綾乃は千代田区居住時に当事者になったからこそわかっていた。

 彼女はお受験なんてどうでもよくて、単に自分たちの仲間に入りたいだけだ――綾乃はその申し出を曲解することにした。

「なるほど。それはともかく、クッキー食べませんか?」

「あ…、ありがとうございます」

 たっくんママと名乗った彼女に合わせて、綾乃は自らを奏太ママと名乗った。他のママ友もそれに続き、すんなりと彼女は輪の一員となった。

 たっくんママの笑顔を眺めながら、綾乃は自分の心の余裕が誇らしく思った。彼女がかつて、背伸びしていた自分のようだったから。

 全身ファストファッションの価値観に一線をひきながらも、受け入れている懐の深い自分に酔った。

ミドリマチ
記事一覧
作家・ライター
静岡県生まれ。大手損害保険会社勤務を経て作家業に転身。女子SPA!、文春オンライン、東京カレンダーwebなどに小説や記事を寄稿する。
好きな作家は林真理子、西村賢太、花村萬月など。休日は中央線沿線を徘徊している。

関連キーワード

ライフスタイル 新着一覧


妊活の成果が出ないときは…「病院を変える」選択肢の考え方
 みなさん、こんにちは。結婚につながる恋のコンサルタント山本早織です。婚活や恋愛のコンサルをしている私自身が、結婚後に女...
死んでも投げ銭はしない!セコい自分に生きがいを覚えるひと
 ライブ配信は、まさに魑魅魍魎(ちみもうりょう)がうごめく世界。今日も今日とて、多くのライバーやリスナーは、配信をめぐっ...
背後から怪しい気配が…恋人を守る“にゃんたま”君の鋭い視線
 きょうは、海を見下ろすお宅の庭、昼下がりのデート中に失礼します。  この地域のマドンナである聡明で美人のサビ猫を...
財運アップ! “真ん丸ポンポンガーベラ”で良縁を引き寄せて
 お花屋さんであるワタクシではございますが、毎日のお仕事の中で「あぁ!神様~!」と思ってしまう瞬間がございます。しかも、...
LINEのマナー心得てる?知っておきたい暗黙のルール8選
 日常生活に欠かせなくなったLINEですが、意外にもLINEが原因で「マナーのない人」という悪いイメージを持たれてしまう...
恋に挑む3匹の“にゃんたま” メス猫の心を射止めるのはだれ?
 きょうは、目を凝らして御覧ください。ニャンタマニアのみなさま、見えるでしょうか?  恋に挑むにゃんたま君が3匹ω...
ポジティブになるには? 前向き思考のメリット&簡単な方法
 たとえ同じ環境で育ってきたとしても、人はそれぞれ性格が異なります。中には、ポジティブな友達を見るたびに、「羨ましい」と...
簡単にできる金運アップの方法8選!習慣の見直し&風水も♡
 お金に関する悩みや不安を抱えている人は多いでしょう。将来のことを考えて、「貯蓄しなければ」と思いながらも、思うように増...
推しの“タメ口”を勘違い…ファンが過ぎてモラハラに走るひと
 ライブ配信は、まさに魑魅魍魎(ちみもうりょう)がうごめく世界。今日も今日とて、多くのライバーやリスナーは、配信をめぐっ...
透明バックにすっぽり♡ まんまるおめめの“にゃんたま”君
 きょうは、透明バックにすっぽり収まったにゃんたま君です。  100円ショップで買ってきたバックを置いておいたら…...
花を贈られるのは迷惑? 受け取る女性の心理を花屋が考察
 もうすぐ閉店準備にかかろうかという時間、猫店長「さぶ」率いる我が花屋へ、今日も悩める中年の男性のお客様がご来店でござい...
「邪魔をするニャ!」恋愛中の“にゃんたま”に怒られちゃった
 きょうは、お目当ての女の子を軽快に追いかけるにゃんたま君ωを、夢中で追いかけて撮った一枚です。  背後に殺気!と...
無駄遣いをやめる5つの方法♪ 後悔する前に自己分析を!
お買い物は、女性にとって楽しいもの。ストレス発散のため、仕事をする上のモチベーションのため、自分のご褒美に……、など、さ...
手抜きに見えない時短家事の方法11選♡ グッズや家電も紹介
 毎日毎日、終わりの見えない家事……。ぐったりしますよね。でも、家事を手抜きしていると思われたくないのも事実。そんな悩み...
ライブ配信では日常風景? “色恋営業”で投げ銭を集めるひと
 ライブ配信は、まさに魑魅魍魎(ちみもうりょう)がうごめく世界。今日も今日とて、多くのライバーやリスナーは、配信をめぐっ...
猫好きは世界共通!外国人にも愛でられ照れる“にゃんたま”君
 日本のいくつかの猫島は、すっかり海外でも有名になりました。  私の住む東京からでも遠いなぁ……と思う島にも、はる...